2ペンスの希望

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雑なるものと純なるもの

何を今さらと言われそうだが、言葉は詰まるところ〈記号〉だ。それもかなり純度の高い。較べて、映像(画像)は、もっと雑。写真も映画も雑なるものが混入した表現物だ。そこで こんな図式を描いてみた。

【雑】の意義には、「いろいろなものが入りまじっている」「まじりけがある」「多くのものが統一なく集まっている」などが並ぶ。雑然・雑多・煩雑・粗雑・乱雑・などなど「純粋でなく」「大まかでいい加減なさま」といささかならず芳しくなく分(ぶ)が悪い説明も見受ける。けど、雑なるものはそれほど悪いものなのだろうか。

例えば、ロラン・バルトが自著『明るい部屋 写真についての覚書【1980年 みすず書房 花輪光訳】の冒頭に掲げたこの写真、その魅惑,その力感。

バルトは書く。

「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は、実際には二度とふたたび繰り返されないことを機械的に繰り返す。‥‥「写真」は絶対的な「個」であり、反響しない、この上もなく「偶発的なもの」であり、「あるがままのもの」である。‥‥要するにそれば「偶然」(Tuché心を奪われる 触りたくなる)の、「機会」の、「遭遇」の、「現実界」の、あくことを知らぬ表現である。( 2.分類しがたい「写真」より。太字強調は訳文では傍点。)

ダニエル・ブーディネ(1945ー1990)は、夜になるとパリの街を歩き、カメラに収めた。

ここには、言葉に還元できないものが定着されている。繊細にして精緻で優雅な何かが。〈意味〉や〈情報〉や〈指示〉ではない何かが‥‥。〈道具〉とは異なる何かが‥‥。

「映像」は直接性の塊(かたまり)である。有無を言わせない暴力性を孕んで現前する。生もの・ライブ。多義的多面体。丸ごと丸かじり。

とはいえ、「ことば=抽象性」「映像=具象性」といった二分法で事足りるほど事態は単純では無かろう。ことばの肉感・直接性・具象性もあれば、映像の抽象性だって間違いなくある。アタマとカラダ、ナカミとカタチ、という光の当て方だって無視するわけにはいかない。う~ん、一筋縄ではいきそうにない。時間も掛かりそう。今日はココまで。to be continued