2ペンスの希望

映画言論活動中です

「ルールはない、自由だ」

「分(ぶ・ぶん)」とか「実(じつ)」とか「雑(ざつ)」とか 書いてみたい映画の成分はまだ幾つかある。けど、一旦休止。

文学は、言葉を通じて読者の想像力をある像へと導くが、映画の場合は道筋が逆。
まずはじめに具体像の提示があり、その具体像をよすがに、観客の想像力は像の奥(向う側)へと分け入っていく。文学が求心的だとすれば、映画は遠心的
」そういった人がいる。「すぐれた映画ほど夢に似る」とも言われてきた。半分は同意するが、半分は首肯できないでいる。「映画は見れば分かる」という意見も根強い。映画は(特に見るのには)教養も蓄積も努力も要らない。国境も文化も言語も越える。そう言われてきた。これも得心半分、猜疑半分だ。
映像の文法は、規範化しがたい。扱いにくい。
昔、或るキャメラマンから聞いた話。
ここぞというところで、カメラをアップにした。すると、ココが大事なところですよと強調しているようで、これみよがし、あざとい、と叱られた。逆に、カメラを引いてロングに見せた。それを見た別の先輩から、意味ありげ、思わせぶりで物欲しげ、と怒られた。一体、どっちなんだ、ハッキリ言ってよ、と思ってきたけど、どっちもあり、だと分かってきた。
その時々の生理・直感までが映ってしまうのが映画の怖いところだ

確かに、法則性は薄い。自由度が高い。
直感と熟慮
強調と抑制
用意周到と軽挙盲動
どっちもあり
なのだ。
見えないものを見る意思 撮れないものを撮る力量があれば、
(図らずも図らずとも)背後にあるもの、隠されているものが露出してくる
映画は綜合芸術だとか、全体芸術だと言われてきた。分割不能、実体具体、直接性、
拙管理人は、映画は練り物だと思っている。
練り物には、不純物や雑なるものも混じる。
映画監督で東京造形大学学長の諏訪敦彦さんが何処かで言っていた。
ルールはない、自由だ