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「雑草」対決

友人に教えられて『テレビマン伊丹十三の冒険』【2023.6.26. 東京大学出版会を読んだ。永くタッグを組んでいたテレビマンユニオン今野勉が書いた本だ。副題に「テレビは映画より面白い?」とある。

伊丹十三という「人物の考察本」であると同時に、今野流の「テレビ論」として面白く読んだ。( いささかかったるい箇所 無きにしもあらずだったが‥) 正直、伊丹十三の映画には感心したことがない。熱心に観たわけじゃないのでエラそうに言えないのだけれど肌に合わないというか‥苦手だ。サービス精神旺盛だし、悪い出来でもないのにダメだった。ずっと謎に思ってきたのだが、この本で腑に落ちた。初期三本に主演し、それ以降出演が途絶えた俳優・山崎努の述懐。(2007年新潮社「考える人」編集部編『伊丹十三の映画』から孫引き)

彼の演出と、僕の演技‥‥というか役作りの仕方がちょっとかみ合わなくなってきたからなんです。

僕は、自分なりにキャラクターをかなり作り込んで撮影に臨むことにしてるんですけど、現場には共演者もいれば、監督やスタッフもいる。天候にだって左右される。つまり、何が起こるか分からない。でも逆に、そのせいで自分が意識していなかったものが出てくることがある。僕はむしろ、それを期待している。手入れの行き届いた庭の思いがけないところに思いがけない雑草が生えてくるのを喜ぶというか、そういうのりしろのある演技を理想としているところがあるんです。

ところが伊丹さんは植木一本、花一輪に至るまで入念に設計して。完璧にその設計通りの庭を造ろうとしてた。一挙手一投足にまでこだわって演出してた。「山さん、そこは目尻のしわ一本で笑ってちょうだい」なんて言ってね。

第一作目の「お葬式」のときからその傾向はあったんですが、「タンポポ」から「マルサの女」へと本数を重ねるほどに、その傾向が強くなってきた。雑草の生える余地がなくなってきた(笑)。それで僕は息苦しくなっちゃったんです。

僕がそう感じていたということは、伊丹さんも分かっていたと思います。

(註:太字強調は引用者) 

思いがけない雑草 受諾派」vs「入念設計演出 雑草排除派

いいなぁ、プロ対プロの真剣対決!

伊丹十三は生前 週刊誌の連載記事にこんなことも書いている。

全員がプロである時、各各が安心してアマチュアにかえれる

(1977年~週刊文春連載『原色自由圖鑑』)

確かにその通りだ。きっと 伊丹十三は雑草ではなく、根っからの貴種(インテリエリートお坊ちゃん)だったんだろうな。(貶めてるんじゃないよ、素直に出自を受け止め、終生誠実に藻掻いた賢人才人だったに違いない)