ミシェル・フーコーの研究者で記号論・メディア論の専門家 石田英敬さんがこんなことを言っているのを目にした。
「テレビに花の映像が映し出されている場合、別に辞書を調べなくても、その映像が示したいものは見ればわかります。でも、それはつねにどこかの庭や公園に咲いている、ある特定の花を表しています。‥(中略)‥ 映像というのは、それをいくらたくさん見ても、個々の具体的な「事例」についての知識が増えるだけで、一般的な「映像能力」みたいなのをアップさせることはできないんだ。だから、映像だけでは、ことばのように自由に思考を組み立てることはできない。」「ことばというものが、ただひとつ具体的なものを指すのではなく、抽象的なものを表すものだからだ。」「本を読んで、自由に使いこなせることばの数や表現の種類を増やしていけば、思考する力や世界を理解する力を高めることができる、という考え方には、だから十分な理由があると僕は思う。そういう意味で、「文字は人を自由にする」というのは正しい、と考えているんだ。」【2010.6. 岩波ジュニア新書】
麻布学園の中・高生に向けた課外授業を纏めた本だ。
この後は、
TwitterやLINE など、短い文章を即時にやりとりするのが当たり前になりつつある今こそ、ことばの力「読み書きする力」が求められる。それがあってはじめて、じっくりと物事を考えたり想像を広げることが出来るようになり、新しいテクノロジーを使いこなして、新しい「自由」を手に入れることができる。
と説く。
言いたいことは分かる。
たしかに、映像は個別・具体だ。人間は「ことば」によってものを考え、理解を深め、想像を広げる生き物だ。情報産業社会になろうときっと変わらない。
けど一方で、こうも言えるんじゃなかろうか。
(ことばによって)よく考えられた映像は、言葉にならない何か、意味や情報に還元できない何か、言葉を超えた何ごとかを孕んで、目の前に差し出されているんだ、と。
よく練られた映像を浴びるほど見ることで、ことばとは別の「読み書きする力」が鍛えられ磨かれていくんだ、と。
今日はエライセンセイにちょっとだけ別の角度から反抗してみた。