2ペンスの希望

映画言論活動中です

黄昏‥‥㉚

㉚は相米慎二 1948(S23)年1月 生。

相米については当ブログでも何度となく書いてきた。上野も何本も書いている。

なかでピカイチなのを ひとつ ふたつ。

人は、相米慎二といえば即座に長廻しと応える。ほら『ションベン・ライダー(一九八三年)巻頭の、あの七分余に及ぶ長廻しといったりする。そして。ふと溝口健二の長廻しを思い出したりしながら、「凝視」などということばを口にしてみたりもする。また、なかには、溝口の長廻しには内容と深く関わった技法的な必然があるけれど、相米の場合はほとんど無内容だからなどとしたり顔の批判をしたりもする。むろん批判は自由だが、どうせ溝口と相米を比較するなら、その同質性ではなく異質性にこそ注目すべきだろう。同じ長廻しとはいえ、位置に固定した溝口健二の長廻しを運動へと解放した点にこそ相米慎二の独特の面目があるのだから。相米は長廻しを位置から運動へとひらいていく。(『魚影の群れ』1983 について「月刊イメージフォーラム」1983年3月号〈ベスト・ワン83〉)

もともと、主題論的な批評を、日本できわめて見事にやってみせたのは蓮實重彦である。しかし、それが見事であったのは、映画を物語の意味に還元して時代の問題やら作者の思想やらに結びつけることをもって批評と心得てきたものたちに対して具体的な画面を呈示してみせたという点においてである。いわばそこには、映画を物語から解放するという戦略と緊張関係があり、その緊張関係において、テマティック(主題論的)な批評も威力を発揮したのだ。ところが、蓮實重彦エピゴーネンたちは、そういう関係ぬきに、いとも楽天的に、「水」だの「足」だのという主題の発見にうつつを抜かすようになったのである。おそらく、このことと、いわゆる脱イデオロギィの気分とは相即しているであろうし、また、ヴィデオの普及とも関係しているであろう。とにかく、なんらかの現実的な緊張関係抜きに「水」だの「足」だといっても、ほとんどなんの意味もないし、少しの生産性もない、このことに、わたしはいい加減ウンザリしているのだ。(『台風クラブ』1985 について「写真時代」1985年10月号)

と書き、例によって具体的な場面・シーンを示しながら論を展開する。

映画を物語から解放する

上野の主張は一貫している。

「映画を意味や主題や思想や哲学として語るだけではダメだよ。」そんなものは「所詮、程度の問題にすぎず、退屈。」「せいぜいが納得、あるいは了解の地平に留まるだけ。」映画のプリミディブな力は「納得の地平をはるかに超えた過激さをいきている」映画は「何かを了解してすむのではなく、見るものをほとんど了解不能の地点まで引きずっていって、それを有無をいわさず肯定させてしまう力をもっている。」

その一方で、こんな初々しく微笑ましい文章もある。

土砂ぶりの雨のなかを、五反田のイマジカの試写室まで行って、相米慎二の新作を見た。よかった。好きな監督の新作を見るときは、いつでも、一刻も早くこの目で見たいという期待と、もしダメだったら‥‥という不安とが一体になって、いつもドキドキするような思いを抱えて出かけていくのだが、それが一時間余りのちには、なんともいえない満足感のなかで、やっぱり相米はエライ都呟きながら、コートを濡らす雨のことも気にならずに駅までの道を歩いたのである。(『お引越し』1993について「ガロ」1993年4月号連)

面白い映画を見た後の映画ファン気分丸出し、手放しのウキウキ感が伝わってくる。

ということで、管理人も好きな「予告編」をひとつ。

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