2ペンスの希望

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テレビと真逆

最近でこそ、自作の制作意図や狙いについてペラペラ語る口の達者な映画監督さんが増えたが、昔は違った。概して口は重かった。「日本の映画は作り手たちがベラベラしゃべり出してからダメになった」苦々しくそう語った斯界の先輩の言葉が耳に残る。確かにその通りだろう。映画を観れば、見てくれればすべてはわかる、口の達者より腕の修練を、というわけだ。正論である。 それでも、昔の監督の発言が記録され後代に供されることは、無意味ではない。最近そう考えるようになってきた。 軟化?老化?日和見
ちょっと前に本『甦る相米慎二』のことを書いた。その巻末に札幌大学教養学部特別講義と題する相米慎二の講演(1991年10月11日)が再録されている。当管理人には≪テレビと映画の違いを語ったくだり≫が面白かった。
かなり長いが、落穂拾い的に挙げておく。
これは僕の経験ですから皆さん一様じゃないかもしれませんけれども――テレビというのは、ブラウン管に映ったものを人間の中に蓄積させない、むしろ忘れさせることで次にあたらしいテレビをもう一度観させようとする機構と働きにあるのです。何かを学ぶというか、テレビから影響されるということは、ほぼない。テレビで投げ与えられるものは情報だけであって、情報以外の、そこから人間の中に新しいエモーショナルなものをつくろうとするメディアとしては、テレビというものは最も遠いものというか、遠いもののはずなんです。遠いものであるから、それが逆に観る者に一つの娯楽性を与えてくれるわけですから、それはそれでいい訳で、テレビというものを批判しようとは僕は思ったこともないし、思ってもいません。しかし、映画というのはそういうテレビと真逆の位置にあるものです。人間の中にある、こう‥‥どう言うんでしょう‥‥記憶しようという能力、あるいは、何かを受け入れようとする能力、あるいはもっと言うと、単純にそれを観ることで湧き上がるエモーショナルなものを受け入れなければ、映画というものが百パーセント面白いものではないのです。そのことに気付かなければ、映画というものはほぼ観る人にとっても役に立たないし、必要のないものとして捨て去られるべき運命にあるのは当たり前で、という風に僕は思ってます。ですから、これから映画がお客さんに見捨てられ、あるいは産業として成り立たなくなっても、僕は一向に構わないと思うし、それは人が選んで捨ててく訳だから、‥‥」(書き起こし原稿が冗長だったので、一部勝手に割愛した。論旨が損なわれないよう配慮したつもりだが‥ご容赦願う。当の相米監督が亡くなっているのでいかんともし難い。)
さらに断わるが、四半世紀前の発言だ。(ブラウン管なんて知られない。今や死語)
映画は情報でも、情報処理装置でもない。情動だ、という主張は普遍的に(不変的に)正しい。異議なし!