2ペンスの希望

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黄昏‥‥㉙

㉙は飯塚俊男 1947(S22)年9月 生。

上野は『土と木の王国 青森県三内丸山遺跡'94』(1995年)『青森県縄文文化 一万年王国 』(1996年) 『縄文うるしの世界 青森三内丸山遺跡'98』(1999年)の「縄文三部作」について書いている。

そのどれも未見なので、管理人に言及の資格はない。ただ、こんな箇所が目に留まったので、ちょっとだけ。

この三部作でいささか不満が残ったのは、ナレーションのあり方である。わたしが、もっとも違和感なく受け止めたのは、『縄文うるしの世界』の奥村潮フリーアナウンサー‥引用者註)の語りで、それ以外は一作目の高橋克彦(小説家‥引用者註)にしても、二作目の立松和平(小説家‥引用者註)にしても、やや気になった。下手というのではない。ときどき邪魔に感じたのだ。とくに、立松は、例の立松節があるから尚更なのだが、これはもう少し考えたほうがいいと思う。ドキュメンタリーにおけるナレーションというのは、なかなか難しい問題ではあるのだが、それだけにもっと工夫して欲しかった。(「縄文祭in浜松シンポジウム」パンフレット、はままつ「伝統と前衛」芸術を愛する百人委員会 2000年 太字強調は引用者)

確かにそうだ。ナレーションというのはいささかならず厄介な代物なのだ。永く記録映画の仕事をしてきた身としては、ずっと考え続けてきた。画面には映っていない外の情報=知っておいてもらうことで理解が深まりそうな情報を付加したり、その場面の心情・情緒をリード・誘導・補強したり、人物の内心をほのめかし示唆したりする「いかがわしい手法」なのだ。上野さんが「邪魔に感じた」のも良くわかる。

そこでかつて、管理人が上手くいったなと思った方法が一つ。「画に映っていること以外はナレーションしない」ということだ。山が映っていたら、「山である」とだけ言い、朝のシーンだったら「朝である」とだけ言う。見りゃぁわかる、ということだけを繰り返す。間合いをはかり、微妙なタイミングで語ることで、邪魔せず集中を促すことが出来る。無声映画時代 画面にメリハリとリズムを与える字幕のような役割なのだ、といえば多少 ニュアンスが伝わるだろうか。