2ペンスの希望

映画言論活動中です

吉田喜重 × 舩橋 淳 ①

 

撮影所育ちの元映画監督(1933年生まれ)と、NY留学帰りの現役映画作家(1974年生まれ)の連続対話集『まだ見ぬ映画言語に向けて』【2020年12月30日 作品社 刊】を読んでいる。

f:id:kobe-yama:20210306135131j:plain

帯にはこうあった。「映画とは何か。映像とは何か。我々はその問いに、答えを出しうるのか。年齢差41歳の二人が、みずからの監督作と日本/世界の映画を語り、映画/映像なるものの本質について、その深淵を徹底的に考察する。時代を超えた映画のエティカ!倫理学

仰々しく気恥しくて帯は早々に外したが、世代も出自も履歴も違う二人が、違いを超えてそれぞれに映画との出会い、自身のフィルモグラフィー・軌跡をベースに、「映画とは何か」を真摯に語り合おうとした試みは、それなりに読める。ことばの端々や裏側に、実作者ならではの「血や涙」「強がりや不安」も滲んで透けて見える。(これは学者先生や研究者の本にはないものだ。)ちょうどお二人の中間に位置する世代で小さな映画世界をそれなりに生きてきた拙管理人にとっても切実な話題・課題もあって、身につまされながら読みすすめた。ということで、気づいたこと・気になったことを幾つか書いてみる。丁度、昨日 本屋で立ち読みした山根貞男さんの「日本映画時評」連載385回【「キネマ旬報」2021年3月下旬号】にも短い感想が載っていた。そこにはこうあった。「‥以後、砥石として使わせてもらおう」なるほどな、本の位置=意味を旨く捉えた表現だと感心した。確かに「砥石」のように使える一冊なのだ。そこで早速無断借用させていただく。

 

Ⅰ〈見る映画〉

二人はともに〈見せる映画・見せられる映画〉ではなく、〈見る映画・(観客によって)見返される映画〉をつくる、と繰り返し語る。

商業映画に対する不信、ジャンル映画の否定、などなど既成の映画に対する嫌悪をあらわに、エスタブリッシュにことごとく反抗する。

監督の権威・権力を忌避して、観客が想像力を働かせて主体的に見ることを求める。

分からぬでもない。「母なき子」吉田と「遅れてきた青年」舩橋、世代も経験も異にする二人が揃って「反=映画」を志向する(嗜好する思考する至高する試行する)。拙管理人にも憶えがある。世に打って出ようとする若者特有の「鬱屈」と「自恃」は、いつの時代にも共通する傾向だ。そのアンビバレンツは頼もしく微笑ましくもある。けど、人間どこかで「成熟と喪失」を経験するものなのに、お二人にはそれが未だ欠けているようにお見受けした。性向だけでは成功しない。生硬では精巧はおぼつかない。

Ⅱ〈伝達不可能性〉

言葉は権力であり、そこに、迷い、曖昧さがない。こうした言葉の独裁制に対して、映画は―この場合は映像というべきなのですが―この映像はこういう意味のものであるとして、たとえ見せられたとしても、それは見る人によってさまざまに解釈されてしまい、決定的な意味を表現することはできない。その限りでは映像における意味の伝達不可能性その曖昧さこそが、言葉の権力に対抗しうる表現にほかならないのです。」吉田は、意味伝達の不可能性、曖昧さ、多義性両義性をこう強調する。

対して「映画が本質的に抱えるまやかし、誰のものでもない物質的客観として受容される魔法のようなシステム」と応える舩橋。

これも悪くはない。けど、言葉だって映像同様に多義的両義的で曖昧じゃなかろうか。作り手がどう書こうと、受け手の受け取り方は自由だ。制御は出来ない。お二人の発言は、「表現・表出」の必然として、言語と映像、文学と映画、ともに当てはまるものだと思うが、如何。

とすれば、問題は「振出しに戻る」だけだ。

[附録=備忘録的メモ]

幼少時に見て印象に残っている映画として、吉田は小津の『父ありき』(1942 吉田9歳):父と息子に渓流流し釣りシーンを挙げている。(さらに「反復とズレ」こそ小津映画の本質だと指摘)。舩橋はサミュエル・フラーの『ホワイト・ドッグ/魔犬』(1982 舩橋8歳):単にそのへんに歩いていそうな白い犬がとてつもなく怖かった記憶を挙げている。よくわかる。何でもないシーン・映画との不意の出会いが人生の方向を決定づけてしまう不可思議は誰しも身に覚えがあることだろう。)

以下、続く。