荒川洋治さんの『文学のことば』を読んでいたら、「和暦・西暦」という文章の中にこんな一節があった。【2013年7月 岩波書店刊 36p】
「先日、「大正○○年は、一九‥‥年だっけ」といつも教えている大学院生にいったら全員が「わからない」という。
たとえば「一九五〇年(昭和二五年)」とあると、それをそのまままるごとおぼえるそうで、計算方法を意識したことも、習ったこともないと。他のクラスでも聞いたが、同じだった。先日、中学の先生の集まりでも聞いたが、教えることはないという。
和暦と西暦を、計算ですばやくつなぐことができないと、歴史も文学もニュースもわからない。外国と結びつくことなどできない。一九一七年にロシア革命。その大正六年に、萩原朔太郎の『月に吠える』が出たこと、その翌年に「新しき村」がつくられたことについて何かしら思うこともできない。中学、高校、大学教育の盲点を知らされた思いだ。
国際感覚、情報社会というけれど、もっとも基礎的なことを教えられていないのである。これは大きな問題だと思う。」
「‥明治に、六七をプラスしたら、西暦のうしろの数字になる。大正は一一足し、昭和は二五、平成は八八を足す。‥」
そういえば、廿とか丗(卅)とかもとんと見かけない。
リューベ、へーべ、という言葉も聞かなくなった。(リュウベ=りゅうべい=立米=立方メートルm³ ヘーベ=へいべい=平米=平方メートルm² )専門家の間では今も使われているのだろうが、日常生活からは姿を消してしまったようだ。
昭和も遠くなりにけり、なんて感慨で簡単に片付けたくない気分だ。