ご当地映画というのがある。昔も沢山あった。ご当地ソングしかり、特定の地域を舞台に物語が展開する。寅さんもトラック野郎もそうだった。有名スターがオラが町村・わが故郷に来てくれる、有り難や有り難や、という訳だ。
撮影所亡き後も形を変えて続いた。疲弊した地域の活性化・振興策に映画を誘致したいという地元の思惑と、何でもいいから映画を作りたい映画屋さんが結託した映画がそれだ。ひところは我も我もと盛んに作られた。ロケ地や宿泊、エキストラは地元が全面協力、無償提供。東京からやってくるプロの映画屋さんが来てくれてホンモノの映画を作ってくれる。有り難や有り難や、という訳だ。かくして地元での公開は大盛り上がり・それなりに集客するが、全国上映では鳴かず飛ばす惨敗。そんなケースをいくつも見聞してきた。そりゃそうだろう。藁をもすがりたい地元と藁よりも軽くて、そのくせずるがしこい中央の映画屋(全部とは言わないが‥)の野合。言葉は穏当を欠くが世界を知らない田舎者と東京で食い詰めたすれっからし、その勘違い・すれ違いが、豊かな実りをもたらすことなど考えにくい。
しかし、こうした噴飯物の“ご当地”映画とは全く異なる新しい地域映画がやっとこさ登場してきた。
東京の呪縛から離れて、地域で映画とは無縁な生活基盤を築きながら、映画を生きようとしている一群の人たち。彼らが新しい映画作りを始めている。、
地元に依拠した彼らは、なりふり構わず東京からのこのこやってくるタカリ根性の連中とは訳が違う。駄目だったら逃げ帰ればいい場所を持たない決定的な切実さ・真剣さ。彼らは、安易な記号化でお茶を濁すことはしない。出来ない。郊外、国道、団地、全国一律・均質化した風景(全国展開の量販店、フードチェーン、消費者金融、通信機器ショップなどの看板が林立する)の中に自らの悶々を投影する。手垢にまみれた慣用句・決まり文句の嘘臭さとは無縁に、徹底的な個別性・固有性を追求する。どこまでも掘り下げる。その具体的エピソード、ディテールからは、ゆくりなくも圧倒的なリアリティが浮かび上がる。ある人はそれを「近郊都市でたまっているやばいくらいの青年の時間」と極めて的確に表現した。帰属したい帰属したくない隘路の中に立ちすくみながら、彼らは映画に向き合う。そこでのキイワードは、故郷意識ではなく共同体認識(正も負もある)だ。
正規軍亡き後のゲリラたち。撮影所を持たない彼らの根拠地としての地域。風土性。
その風土に根を張った根拠地づくりにこそ期待したい。もちろん手放しでの礼賛は出来ない。ハンディキャップも少なくない。それでも撮影所なき時代の映画の可能性、そのひとつはココにある。
映画における風土性、地域性は新しい「象限」に入りつつある。