ご容赦:「乞う!ご期待」とは言わなかったものの、「明日から書いていく」と切った啖呵は嘘だった。夏風邪にやられてダウンしていた。ということで、やっと「事業設計ノススメ」
一言で言えば、もうそろそろつくりっぱなしは止めにしないか、ということだ。
確かに、作りたいから作る、作るのが楽しいから作る、はじめはそんなものかもしれない。兎にも角にも映画を完成させる。出来上ったらそこがゴール、仲間内(スタッフや出演者・関係各位)と近隣で盛り上がってそれでオシマイ。その繰り返しでは「成長」もなければ「能」もない。寂しすぎる。
いやいや、オレたちは、出来上がったものは一人でも多くの人に見てもらいたいと思ってる。観客あっての映画ということは百も承知、けど、上映してくれる劇場が少ない、助成や支援策も足りない、文化行政も貧困だ、それに、それに、‥‥、言い訳はいくらでも言えるだろう。
しかし、本『映画はどこにある』の中で、「空族」の 富田克也(1972年生)は「ノーギャラを美談や搾取の方便にしてはならない」と明言している。大澤一生(1975年生)は、「ちゃんと「事業設計」しようよ。「成功ライン」を設定しようよ」と主張し「「売る」意識を持つべし、自前の設計を携えよ」と語る。岩本秀世(1977年生)は、「つくる側、みせる側の温度差を越えて、制作、上映、宣伝をひっくるめて「映画の現場」だと捉える視点」を提起する。加瀬修一(1973年生)は、「お金が無い、時間が無い、と言う言葉は嫌いだ。発想を変えよう、あるもので出来る方法を考えよう」と言う。
ものを作ることは面白い。とりわけ何人もの人間が集まって一つのものを作り上げることはエキサイティングで祝祭的だ。それに引き換え、公開・上映・資金回収には派手さはない。現場的高揚にも欠ける。楽しかったからよしとしようよ、多少の赤字は覚悟しなきゃあ、‥‥、終わったことをグダグダいうより次回作を!次の祭の準備を!そんな声に、祭の後のゴミだけが残され、やがて忘れさられていく。
いや何、インディペンデント映画に限ったことじゃない。
メジャーといわれる大手の作る映画だって、ここ何十年事情は似たようなものだ。作りっぱなし、赤字の垂れ流し。(詳しい論評は端折るが、本編と呼ばれてきた劇映画の大半は赤字、収支の帳尻が合わないまま、処理されているのが現状だ。→それでも、映画が作り続けられていくからくりとその分析は、別の機会にまた書く。)
つまりは、大手、独立・自主を問わず、今求められるのは、作ることではなく、見せることを射程に据えた「事業設計」なのだ。ホントに誰か本気でやらないか。