2ペンスの希望

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『日活館』

年来『居眠り通信』というメールマガジンを愛読してきた。編集発行人は、斯界の大先輩にして今も現役のテレビマンMさん。すぐ隣の駅に住まいながら永らくのご無沙汰だが、今日はご当人の許諾を得てそのメルマガ最新号を転載させて戴く。
日本全国何処にでも歩いていける距離に映画館が幾つもあった時代の活写。
映画館独特の匂いとともに往時が蘇る。しかし思えば、かれこれ三四半世紀ほどの時間が経ったのだ。若い衆にとっては原始時代みたいなものかもしれない。(三四半世紀なんて言い方も最早死語か)

居眠り通信 25年8月15日号 『日活館物語』      [編集]神戸孤老本舗
 私が小学生だった頃、父は映画館の館主だった。それを始める前は建築請負業で、町なかの小さな映画館の建設を請け負ったが、発注主が倒産したため自分で不慣れな映画興業を始めることになったのだと後に聞いた。太平洋戦争が始まる頃のことで、映画館の名は「日活館」といった。家内営業のようなものだったので、家族で出掛けて映画を見たり手伝いをしたりして、暇になると専用の家族部屋で休息したり遊んだりした。
 その部屋は二階席の奥にある和室で、丸窓から表通りを眺めることができた。通りは八幡宮に向かう道で、祭礼のときには神輿の行列が通過した。その御通りの様子を家族一緒に窓越しに見ていると、サーベルをつけた髭面の巡査がやって来て、「神を上から拝むのは不敬である」と厳しく叱られた。
 部屋から狭い急な階段を昇ると三階に映写室があった。学校へ上がる前だったと思うが、日活時代劇スターの「阪東妻三郎」「片岡千恵蔵」「嵐寛寿郎」などの字を書いて映写技師を驚かせた。フィルムのきつい匂いがする室内には大きな映写機が二台備わっていた。電源ON、フィルム装填のあとに起動させて光源ONにすると、大きな映写機はうなりをあげて動き始める。それを何度も見ているうちに自分でも操作できると思った。
 映写中のフィルムが終わりそうになると技師が小窓からスクリーンを覗く。画面の右上にパンチが出るともう一方の映写機を起動し、数秒後にもう一度パンチが出ると映写窓を素早く切り替える。映し終わったフィルムは画面が切れそうな箇所があれば編集機でつないで巻き戻す。力を入れ過ぎるとフィルムが巻き取られずに宙に舞ったりした。
 上映している映画は自転車で三十分ほどの所にある「第二日活館」と同じもので、上映が終わると何巻かにまとめて「おじさん」が両館を自転車で行き来して運んだ。文字通りの自転車操業で、届くはずのフィルムが交通渋滞で遅れると上映が途中で中断し、暗闇に置かれた観客がブーイングして激しく騒ぎ立てた。
 館の近くに住んでいる同級生のフミオは無賃で映画を見る「ただ見」を得意とする常連だった。入り口付近で様子を伺って木戸番が横を向いた瞬間に素早く中へ滑り込む。上映が終わって観客に紛れて出て行く時に見つかって「また、お前」と叱られ、走って逃げた。
 終戦で日活館は進駐軍に接収されて閉鎖し、人手にわたった。そして闇市となった後はストリップ劇場に変身し、忠臣蔵の看板は肉体踊る看板に代わってしまった。
銀幕に憧れの剣豪スターを映し続けたわが日活館は、光栄ある時代を終えた。 [終]