2ペンスの希望

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古い文章 三つ

またまたサボった。
大昔に書かれた文章ばかり読んでいて、それがそれぞれに身に応えるので、新しい意欲が湧かないでいる。困ったものだ。
といって、ジタバタしたって始まらないので、
気に入った・気になったもの数点でご機嫌伺い、お茶を濁す
(パディ・チャエフスキー‥引用者註:20世紀半ば舞台・映画・テレビで活動したアメリカの劇作家)によれば、テレビ・ドラマの真髄は、文字通りのリアリズムであり、その最適の素材は、「劇的でない」平凡な小さな出来事なのである。日常茶飯事の中にこそ、じつはもっとも劇的な人生の機微がひそんでいるのだ。この種の素材を扱うには、舞台はあまりに重々しく、映画は強烈にすぎる。これを適当に劇化しうるのはテレビをおいてほかにない。‥中略‥小さな枠に限られるテレビは、ひたすら奥行きを求むべきである。」(江上照彦さん『チャエフスキー独身送別会』1957年2月発行 訳者あとがき)
記録映画を見たい人というのは、たしかに娯楽映画を受け身で見る人と違って、なにか積極的な態度で、映画を見ようとしているに違いないと思います。しかしこのなにかは、実は大きく二つに分けられるのではないか、と思います。
一つはなにか物が見たい型であり、なにか新しい物を見ることで、自分自身をすこしずつ変えていこうとするのです。そのさい、映画はあくまでひとつの手段であるだけであって、別にほかの手段でもよいわけです。ただ映画には、特有の「眼」がありますから、映画でしか見られぬものがあるわけですが、あくまで興味の対象は、写された対象そのものであり
‥中略‥もう一つの型は、映画を、映画として見たい型です。
写真機一つ持たしても「物」をとりたい人間と「写真」をとりたい人間とに分かれるようで、
‥後略」(足立興一さん:[「映画で見る・映画を見る」シ・ドキュメンタリ・フィルム会報第一号1964年7月発行)
哀切であることは誰でも撮れる、それが痛切であるかどうかだよ、オグリ。それだけを憶えておけ、あとはうんうん唸っていれば何とかなる。もの哀しいことと、身を切られるように痛いこと、私(小栗‥引用者註)は肝に銘じた。」(小栗康平さん:恩師浦山桐郎監督に云われた言葉を巡るエッセー‥『哀切と痛切』1987年1月刊)