昨日の石岡良治さんの本の末尾に、國分功一郎さんとの対談が載っている。その中でフランスの哲学者ヴラジミール・ジャンケレヴィッチの『還らぬ時と郷愁』が紹介されている。
國分センセ:「人は何かを懐かしいと思うんじゃなくて、ただ懐かしいと思うんだ」というのがジャンケレヴィッチの説。対象はどうでもよくて、ただ単に懐かしがりたいだけ。この「懐かしさ」は、消費社会が最もよく利用する記号であり、だからこそ、手強い。
「ノスタルジア」というキイワード、本文の中でも何度も言及される。
「実際にその時代を経験しているかどうかにかかわらず、一種の言語行為として「懐かしさ」が広まっているのではないか?」
ありもしなかった光景が人工的に現前化され、受け入れられる‥‥
これって、まるで「映画」であり、「悪夢」のようでもある。
と、ここまで書いてきて、不意に、つげ義春の「ゲンセンカン主人」(1968年ガロ)を思い出した。石岡本からは逸脱するが、挙げてみる。
ともすれば、ノスタルジアは、見たくないもの・おぞましいものには目をふさぎ脚色・美化されるものだが、こうした「凡百」「月並み」から脱して、怖さや不可解さも丸ごと差し出すつげの力技を‥どうぞ。
画像は韓国版から。
(何ですって?ハングルが読めない?じゃあどこかで日本語版を探してみて下さい。)