2ペンスの希望

映画言論活動中です

notes 1 オープン

日本の映画はいま〈液状化〉している、そう思っている。
根底から土台が揺らぎ、倫理も道理も混乱している。
新しい動きが生まれながら、なかなか蓄積に至らない。
いかにもひ弱だ。喧嘩も論争も減った。
何が足りないのか、何が大切なのか、
こうあって欲しいと願う日本の映画の形について、思いつくままにノートしてみたい。
メジャー資本の映画、産業の映画の隙間や穴を補完するのではなく、全く新しい映画の沃野を開墾するためのメモ=《ご近所大長征》noteを綴ってみる。

noteの第一は、「オープンであること」。
どんな時にも決して「閉じないこと」−これである。

映画の作り方は、大部隊編成だけでなく、少数チーム、或いは、一人で作る個人作家と広がった。しかしどんな場合であっても、何事かを表現し、それを、見せるということは、我が身を「さらすこと」であり、世間(世界)と相渉ること以外ではない。映画を見ることまで含めて、私的な行為でありながら、同時に公的な行為でもある。そう思う。
厳しくキツイ局面になればなるほど、まぁいいか、分かる奴に分かればそれでいいや、と、仲間内に閉じたくなる。お金が‥時間が‥才能が‥言訳の材料はいくらでも出てくる。責任を取らなくて済むように、どこかで閉じたくなるものだ。閉じたところから腐敗が始まる。甘えも生まれる。内向・自閉しないで欲しい。秘密主義に陥らないことだ。
しかし、常に「開いてあること」は思うほど易しいことではない。独りになって泣きたい夜もある。それは否定しない。しかし、社会性・集団性・関係性を手がなさないことが大切だ。常に社会との関係性を手放さないこと、合言葉は、例えば、「引きこもり」系より「出会い」系。
そのポイントは、自分の力を恃(たの)むより、人を信頼すること。つまり、「自力」より「他力」ではないか。神や仏がいるかどうかは定かではないが、自分以外の力を認めることは重要だと思う。昔見た映画にこんなのがあった。殺し屋ナンバーワンの地位を目指す主人公が狙撃に失敗した時の台詞「‥神様みたいにかるいものが銃の先っぽにとまったんだ。それだけだ」 表現には、いつも、目には見えないが「神様みたいにかるいもの」がまとわりついてくる。ことわざではないが、「立ってる者は親でも使え」というではないか。もっとも横着では困る。緊急、いざという時に限る。
‥話しが脱線気味になってきた。ふぅ、今日はここまで。