2ペンスの希望

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四無主義

やっぱりマイケル・ムーアフレデリック・ワイズマンも駄目だと思う。駄目というのが言い過ぎなら,性に合わないと訂正しよう。ムーアについては、多くの人が言及しているように、映画人というよりジャーナリストだと定義した方が良さそうだ。テーマの掴み方、アプローチの方法論、達者な自己演出などをみてもそう思う。誰かが言っていたが、一流のポリティカルマニュフェスト(政治的声明)だが、ドキュメンタリー映画としては三流だと‥同感だ。
それに比べれば、フレデリック・ワイズマンは、紛れもなく映画人だ。1930年生れのアメリカ人。(同年生れの映画人にはC.イーストウッド、J.カサヴェティス、仏のJ.L.ゴダールらがいる。)しかし、拙管理人には少々気に食わないところがある。以下具体的に述べてみたい。
ワイズマンは、よく“四無主義”の映画作家だと言われている。ナレーション無し、字幕テロップ無し、音楽無し、インタビュー無しの“四無主義”が称揚される。これぞドキュメンタリー、これぞ真実というわけだ。しかし、ワイズマンの方法意識はそれほど単純素朴ではない筈だ。クルーは三人体制、撮影期間は1ヶ月から3ヶ月。それ以上はかけない。こうして撮影現場でコレクトしてきた膨大な映像を、編集室に持ち込み、ためつすがめつ眺め、長時間(短くても1年長くは数年かけて)熟成して編集に注力する。高度な倫理と練り上げられた戦略がゆるぎない緊張の持続=映画的達成をもたらす。確かに見事である。仕留めてきた獲物を前に、舌なめずりするワイズマンの姿が目に浮かぶようだ。
しかしである。批判は二つある。
ひとつは、カメラ目線の徹底的な排除、登場人物が思わずカメラを見てしまったカットや写り込んでしまったマイクやスタッフの姿は完全に削除される。つまり、撮影現場でカメラやスタッフはあたかもその場に存在しない透明人間のようにふるまい、登場人物もそれを許容している。一見客観的な観察が実現しているように見えてしまう。しかし、これは拙管理人の経験上でいうのだが、カメラは異物であり、どこまでも闖入者なのであり、その存在が場をゆがめ、対象との関係性・緊張関係に影響を与える。その関係性を捉えることが撮影の主眼目なのだ。カメラを見えないもの、存在しないものとするワイズマンの仮構(加工)にはどうしても合点がいかないのだ。もっとも、国民性の違いとか文化風土の違いも少なからずありそうだが‥。
もうひとつの不満は、ワンマン性だ。これはまったくの推測で書くのだが、ワイズマンには手足としてのスタッフはあっても、作家はワイズマン独り、その意味では、映画監督というより映画作家という呼称がふさわしいのだろう。(そういう映画があってももちろん良いが、性に合わないのだから致し方ない。)
僭越ながらワイズマンの気持ちは良く分かる。作り手はどこかで全能の王たることを望むものだ。そうこうあれこれ考えていくと、四無主義も、もしかしたら一番ラクチンだから選んだ手法なのかもしれないと思えてくる。ナレーションを書かなくていいし、インタビューもしなくて済む。
すべては編集室に戻ってからの勝負だ。思う存分ひとりで遊べる。それがワイズマンの目論見・真骨頂のように見える。
我が侭でありながら、あくまでフェアであろうとする民主主義国の申し子。

‥‥同意しかねるという向きもあるだろう。しかし、現場経験と実感に則したひとりの人間の意見だとご理解願いたい。

その意味では、フレデリック・ワイズマンの映画は「前・映画的」というのが、拙管理人の見立てである。