2ペンスの希望

映画言論活動中です

堂々巡り

映画とは何か、という問いのまわりでウロウロオロオロするうちにも、友人・知人からは、「次回作のテーマを決めた」だの、「映画の関西上映が決まった」だの、「若い青年の熱意に応えて映画作りを始める」などの知らせが届く。どれもこれも素敵なことだ。掛け値なしにそう思う。しかしどこかで、あなたにとって映画って一体何なのでしょうか?と問うてみたい「野暮」が頭をもたげてくる。
一方で、最近読んだ幾つかの本の一節が浮上する。
湯浅学(『音楽が降りてくる』)「新しい音楽なら“過去”にいっぱいある。
岩下尚久(『芸者論』)「文化というのは、余ったお金の上にしか咲きません。
宮本輝(『真夜中の手紙』)「ボディビルで鍛えたムキムキは、持ちやすい器具を使って鍛えた筋肉なので、実際の人間の生活や労働の現場では役立たずだ。
鮎川信夫(「固窮の人」【吉本論コレクション】より)「なぜ思想が羞恥の対象になるかといえば、それが彼(吉本隆明‥引用者註)自身のものだからである。多くの知識人にとって思想は権威からの借りものにすぎないから、羞恥の対象になるどころか、安心して自信の拠りどころとなるくらいのものである。しかし、吉本にとって、思想はほんらい人に隠しておきたいもの、何ほどかの羞恥を伴わずしては公開し得ない、自分自身の本性に属するものとして意識されていた。その違いは決定的である。
どれもこれも身に沁みて、色んなことを考えさせる“言葉”である。
経験や知識をキチンとひきだしに整理して分類するようなことはしないで過ごして来た。その時その時の自分のアタマと身体だけで対処してきた。その挙句の堂々巡り、以って瞑すべしか。
ブログは、少々スローダウンするかもしれないが、持続的にやる。「個別の映画の良し悪し、出来不出来を云々することはしない。」「あくまで今の日本の現実の中で映画について考えていく。」自らに課す条件はこの二つだ。その上で、ちょこっとでも“映画”の本質に擦れれば良い、と思っている。