2ペンスの希望

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紙ヒ5 続・映画監督になる法

昨日の答合わせ。
「T―映画は●●●●です。」
俊代陸斎先生は、太ゴシックで「映画はスポーツです。」と断言する。
T―映画はスポーツです。物の始まりが一なら国の始まりは大和の国、泥棒の元祖が石川五右衛門なら‥‥(以下延々と寅さんの啖呵が続き、そこに「映画にとって大切な要素がほとんだ全部含まれている」と述べているのだが、今日は割愛)
B−僕が割り込んで口を出す。以下↓

B―べつに芸術といったって、構わないんじゃないですか。
(先生は断固とした調子にもどった。)
T―駄目です。映画をスポーツだというのは、例えば、野球の投手でいうとスピードがない上にコントロールが悪くてストライクが入らず、野手でいうと打てない取れない走れないといった選手は、絶対にレギュラーにはなれないですね。狙ったところへ球がいかず、バットを振っても掠りもしない選手が、ろくに練習もせずに、難解な半可通の野球論を論じたって、誰も相手にしないでしょう。ところが映画を芸術とすると、技術や思想は目に見えない神秘的なベールにおおわれてしまうから、そういうものを持ってなくても持ってるような顔をして、おれは芸術家だ、といえば通用することになる
B―いいんじゃないですか、それで通用する世界なんだったら‥‥。
T―紙と鉛筆があればできる小説や詩の世界なら、それでもいいけれども、つくるのに家を一軒建てるくらいの金がいる映画では、はたの犠牲が大きすぎます。本ならば、書店でパラパラめくって見当をつけたり、立ち読みして買うか買わないか決められるけど、映画はそれができませんからね。試写室で見ている人たちならともかく、金を払って映画館に入って、小説でいえば新人賞の選外佳作にも入らないような映画を見せられる観客は、まったくいい迷惑です。
芸術至上主義といえば、いかにも純粋なようですが、じっさいは「芸術」という神聖不可侵の御幣をふりまわして、気の弱い人間を威嚇する権威主義か、ふりまわしているうちに当人も取り憑(つ)かれてしまった迷信の一種である場合が多い。御幣かつぎの横行は、そのジャンルの混乱と衰弱の予兆です。芸術至上主義は、映画の敵ですよ。
B―しかし、そういう論理は、作り手を完全に資本の支配下に置こうとする連中に、力を与える結果になるんじゃありませんか。
T―資本至上主義も、もちろん映画の敵です。いまの世の中で最大の御幣は「金」ですからな。その御幣かつぎの跳梁が、結局、映画を衰退に追いこんだ。映画が蘇る道は、「芸術」と「金」の双方から解放されて、身軽に自由になることです。
B―言葉でいうのは容易(たやす)いけれど、そんなに都合のいい第三の道が、
ありますかね。
T―あります。
(先生は断固として答えた。)
T―観客が好むのは、明快なものです。似非(えせ)芸術に弱いのは、学生やインテリや批評家の一部だけで、映画館の観客の大部分は、そんなもの相手にしやしません。
いまスポーツの観戦が、大衆の心を強くとらえているのは、めったにない素質と才能が大変な練習量によって鍛えられ、磨かれたところから生ずる素人には及びもつかない球の速さや飛距離、技の切れ味、そういう人間たちの激突から生まれたときに予想を遙かに超える意外なドラマ性が、すべてはっきりと目に映って、感動をよぶからです。
映画人も、目に見える技術やキャラクターや主張を身につけて、練習に練習を重ね、九回裏の逆転満塁サヨナラ・ホーマーのような、血沸き肉踊る面白いスリルと感動をつくり出さなければ、スポーツに拮抗して、大衆娯楽の王座を奪回することはできませんよ。‥‥
スピードとスリル、鍛えられ磨かれた技術の切れ味、予想を超えたドラマが与える感動は、かつて映画館に豊富にあったものだった。だから原点にもどって、映画はスポーツである、と考えれば、できないはずはないんです。
 [太字は引用者]

↑以上30年前の文章なので、実情にそぐわなくなった部分(家一軒→車一台 映画館にはもはや大衆は来ない→観客の多くは学生+学者+インテリ+インテリもどき、批評は絶滅した、etc‥)も散見するが、
基本的には「異議なし」だ。(以下 次回)