2ペンスの希望

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「常在能動」

昔はスクリーンだけだった。映画館の暗闇に包まれて見た。
そのうちに公民館や講堂に映写機(16mmが中心だった)を持ち込んでの映写会も増えてきた。暗幕が不十分だったりして、光の遮断が完璧でなかったり、隣りからの音が漏れてくる中で多種多様な映画を愉しんだ。
やがて、テレビ放映で多数の映画に出会う。そのテレビもブラウン管から液晶やプラズマディスプレーに代わった
1980年代以降はビデオやDVD、Blu−rayもあまねく普及した。
今ではパソコンのモニターや携帯情報端末(スマホ、携帯電話、ipadなどのタブレット)で映画を見たりするのも当たり前になった。
いまだに「映画館は映画館で観なくっちゃあ」という映画館原理主義(映画館至上主義)も残るが、正直な話、絶滅危惧種だろう。
若い世代の大半は、パッケージメディアとしてはじめて映画と出会う。

同じ映画を映画館のスクリーンと自宅リビングのテレビ画面、PCのYouTube、三つで連続して見る経験をした。
ソフトは全く同じもの。なのに視聴環境も視聴意識も大きく違っていた。
当然のことだが映画館では全く受動的、シートに深々とおさまり身も心も全面的にゆだねて受け止めて観るだけ。つまりは「完全受動」。
自宅リビングでは、再生デッキを操作しながら、気になったシーン・もう一度見て確認したいところを何度かリピートしながら見た。それでも、それでも自分と映画の間には、見せてもらうという意識と距離があった。「受動時々能動」という感じ。途中まで見て残りはあとで‥、という視聴スタイルも可能である。
それが、YouTubeでは、さらに決定的に違っていた。デスクに座って、手元にはキイボードとマウス。向き合う形での視聴。止めたり同じ箇所を繰り返したり簡便自在に操作しながらの視聴。ヘゲモニーは完全に我が方(=見る側)にある。「常在能動」とでも言おうか。
映画と向き合うこの位置関係の変化、その影響は想像以上に大きい。改めてそう気付かされた。今しばらく考えてみたい。