2ペンスの希望

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「映画館というより映写室」

毎日、映画を見ている。月曜日から金曜日までは、試写を二本ずつ見る。(中略)おまけに、土曜、日曜にも街の映画館にいったりする。

また、冬と夏はどちらも二ヵ月ぐらい、外国の町にいるのだが、その町の映画館でやってる映画はみんな見る。ただし、はんぶん以上は、もう東京で見た映画だ。外国の町で見た映画を、二ホンにかえってから、また見ることもある。一年も二年もたって、二ホンに輸入される映画もあるし、まるっきり輸入されない映画もたくさんある。

そんなことで、ずっと映画を見ている。ぼくは映画の関係者でもなく。また映画評論家でもない。それなのに、やたら映画を見る。こんなのは、映画病とも言えない。病気はビョーキで異常状態だけど、ぼくの場合は異常ではない。これがノーマル、ふつうなのだ。つまり映画を見ることが日常になってしまった。

田中小実昌さんの文章だ。ハヤカワ・ミステリー・マガジンに1988年1月号から1990年2月号までの連載を纏めた『コミマサ・シネマ・ツアー』【1990.2.28. 早川書房刊】の「あとがき」にある。昭和の頃には「作るプロ」に限らず、「見るプロ」が少なからず居た。コミさんもそのひとりだった。

アメリカ西海岸最北部のワシントン州シアトルの大学地区にある映画館について、文中こんなことを書いている。

茶店の奥みたいなところに、なんでもでっかくて、だだっ広いアメリカにしては、ちいさなちいさな映画館のグランド・イリュージョンがある。フランスのジャン・ルノワール監督の名作『大いなる幻影』の名前をとったもので、アメリカで外国の映画が評価されることは、ごくまれだ。(中略)フランス映画の題名を映画館の名前にするなど、やはり大学地区だからか。少数の映画好きのひとたちのための映画館というより映写室だろう。(註:太字強調は引用者)

う~む、「映画館というより映写室」 30年以上昔の言葉が、胸にこたえる。

サブスク・配信・スマホ視聴の時代、シネコンは別として街場の映画館はなべて「映画館というより映写室」なのかもしれない。「館」というほどの規模はない。こじんまりした「室」サイズ。暗闇の中でひっそりと映写する小部屋!?

う~む、なんたる悪夢、いや 意外と正夢かも