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紙ヒ6 続々・映画監督になる法

長部日出雄さんの「映画監督になる法」つづき。

映画はスポーツです、が第一。第二は、映画はマジック・トリックです。
さらに、映画は美術です、と続く。
カメラマン、美術家、衣装デザイナー、メークアップ・アーティスト‥その他たくさんのスタッフのアイデアと努力の結晶である豊富な情報量と記号量、多種多様な才能がぶつかり合う集団創造‥‥」とあり、やがて俊代陸斎先生の正体=尾上松之助の幽霊と判明したあげく最後には皮肉の利いたオチで終わるのだが、この辺りは単行本に当たって貰いたい。【『紙ヒコーキ通信2 映画監督になる法』文藝春秋1985.5.30.刊】
長部さんは、ビデオの成長によるシネマテークの可能性に期待を寄せながらこうも書いている。
T−ビデオで研究しているだけでは、映画監督にはなれません。足しげく映画館に通わなければ‥‥。劇場で見なければならないというのは、映画には夢と祝祭の両面があるからです。密室で見るビデオでは、夢は育てられても、祝祭の感覚が身につかない。映画館は、顔が違うように人によって違う千差万別の日常における差異を、いっとき薄暗闇のなかに溶暗(フェードアウト)させ、みんなの胸の底に共通して眠っている架空の夢によって結ばれて、大いに楽しむ非日常的な祝祭の場でもあります。
夢と祝祭は、長部さんの本に頻出するキイワードだ。
夢 =一人一人べつのものを見ている=芸術性
祝祭=多くの人がおなじものを見て血を沸きたたせる=娯楽性

と何度も書いている。
T−子供のころに味わった周りが暗くなっていくときのかすかな不安をともなった期待感と薄暗闇のなかでみんなと一緒に興奮して手をたたき声援を送った祝祭の感覚はなかなか消えるもんじゃありません。日本映画の衰退の一因は、大衆を蔑視し、観客を馬鹿にしたところにもあります。作り手の大衆蔑視は、自分をエリートとおもいこんでいる優越感のほかに、どうにも掴まえにくくて何を考えているのかよくわからない大衆への苛立ちと、どうしても客を呼べない自分の非力を、相手のせいにした責任転嫁の口実でもあったとおもう。
作家の無意識と一般の人人の無意識面が触れあったときに、かれは流行作家になる、という川上宗薫氏の指摘は、畏るべき卓見。
 [太字 原文]

映画館、闇、祝祭、無意識、‥今の若い世代にとってどれだけリアルな言葉なのだろうか?いささか不安。いや、かなり暗澹。