2ペンスの希望

映画言論活動中です

小人

映画とは何かという厄介な問いに足元をすくわれている。人間とは何か、愛とは何かといった類いに近いことは良く分かっているつもりだが、困ったものだ。
「動物=動くもの」という単純素朴な措定に倣って“言葉”をよすがに考えてみたい。
日本語では映画、昔の人なら活動とか活動写真、業界関係者の間ではシャシンと呼ばれたりしてきた。外国語なら、フィルム、シネマ、ピクチャー、ムービー、ムービング・ピクチャーなどか。ウィキペディアを見てきたら、フランス語のシネマの語源は、ギリシャ語の「動く」に由来すると記されていた。(日本語では シネマのシネが死ねを連想させることから忌み言葉とされキネマとなったという説も紹介されているが、どうだろうか)
とするなら、映画とは映る画・投影された動画ということになる。さらに敷衍すると、「動く」と「画=視覚的体験」ということにでもなろうか。動き=ムーヴは、アクションに限らず、何らかの動き、何かがムーヴするものはすべて含まれる。人間同士の関係性の変化・変質に始まって、人間(登場人物・対象)とカメラ(スタッフ)との関係性 セリフ・視線・表情・動作などにも動きがある。動きの流れが、カットとカットの編集点であり、その連なりが映画的な構成となる。スペクタクルやアクションは、活劇にだけあるのではないのだ。このことは経験的にも断言できる。同じように「画がある」とか「画がなっていない」という言葉も使ってきた。お話や主題がどんなにご立派であっても、「画がない」ものは映画ではない、そう思ってやってきた。今までに見たこともないような画=フレームやアングルやサイズやカット(ショット)の有無。写真との違いは、時間的意識・持続的計算だ。(その意味では、映画に一番近しい表現形式は、今は音楽だと思っている。)
映画が、映写されるものだという認識も根深くある。ここからは、洞窟や闇、光と影、ゆらめき、めまい、視覚的置換 覗き見、窃視、錯視、錯覚などの言葉が生れ、誤解 ずれ 勘違い 驚き 気付きなどが浮かび、無名性、共同性、受動性などのキイワードへと拡張する。
最近見直した映画の例で言えば「手乗り冨士」「地図の上に投げ込まれたコイン」‥‥。うーん、ここまで判じ物みたいになってしまうと、誰もついてきてくれないかも‥。もはや暴走・妄想、収拾がつかなくなってきた。この歳になって‥いやはやなんとも。
「小人輭居して不善を為し、至らざる所無し」とはこのことか。一人で居ると碌なことが無さそうだ。
もっとも衆を恃んで「悪貨が良貨を駆逐する」愚に組するつもりはさらさらない。