2ペンスの希望

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デジタル波紋

シネコンを中心にDCPの導入が急ピッチだ。デジタル・シネマ・パッケージ。フィルムを一切使わず、デジタルデータのままで配給・上映されるしくみだ。デジタル化が完了した映画館では、もはや映画だけが上映されるのではない。有名歌手やアイドルグループのコンサート・ライブ、スポーツ中継や落語会、歌舞伎鑑賞、果ては将棋や囲碁名人戦生中継までが企画されている。資本にとって、金に成るならソフト(最近はコンテンツというらしいが‥)なんか何だっていいのである。デジタル化によって、割の合わない映画なんかよりもズット効率的でもっと手っ取り早い換金作物が生れつつあるのだ。かくて、映写室には、解像度4Kプロジェクターがスタンダード設置され、35mmのフィルム映写機は撤去されるか隅っこに追いやられていく。確かに、フィルム文化を守れ、選択肢の多様性を保証せよ、と言う声も上がっているが、いかにもか細い。経済と資本の論理は容赦ない。間違えてはいけない。何度も言うが、彼ら(資本・大手・メジャーといわれてきた偽映画会社)は映画なんか愛しちゃいない。金のなる木を探してるだけだ。
今年2012年3月35mm映画映写機の最大手メーカー「日本電子光学工業」が倒産した。かつて学校や公民館などに常設されていた16mm映写機のメーカーも既に何年も前から製造中止し、修理やアフターサービスなどのサポートも軒並み終了する。(北辰、エルモが2012年8月で。映機は既に2010年3月を持って終了)フィルム自体の保存・管理とともに、映写機の寿命・環境も風前のともしびなのだ。
滅びるものは滅びに任せよ。もし本当に求められるものなら荒れ野から新しい生命が芽吹く筈、そんな声も聞こえてくる。しかしである。
フィルムの映画の歴史、百余年の蓄積をどう受け継ぎ、新しい血を注ぎ込んで、来るべき千年紀を準備するのか、映画を志す若い世代には、一本一本の映画の良し悪しや出来不出来を云々することよりも、「映画という企て」をどう事業化(社会化)し、再生産するサイクルをいかに作り上げていくのかを射程に入れた取り組みを求めたい。映画で育てられた(と自覚する)ロートルは、すべからく若い世代と来るべき映画のために出来ることはすべてやることだ。