2ペンスの希望

映画言論活動中です

図面と地図

これから来るべき次の映画について模索したい。成算があるわけではない。五里霧中。暗中模索。それでも、日本の映画の過去の栄光、現在の混迷を越えて、未来の再生を準備する為に、「試行覚悟」と行きたい。(誰だ、試行錯誤の間違いだろうなんていう奴は‥)暫くは手探りで進む。当分は生煮え、消化に悪い論考が続く。心してのお付き合いを願う。下痢・腹下しにあっても当方は一切関知せず、責任も負わない。

これまでも度々書いてきたが、劇映画とドキュメンタリーに本質的な差はない。すべて映画は作りモノ、表現物、フィクション、加工品である。こんな当たり前の理解がまだまだ行き渡らない。難儀なことである。
もちろん違いはある。
ドラマには、比較的詳細な設計図と完成予想図(らしきもの)が存在する。但し出来上がってみたら似ても似つかぬ羊頭狗肉嘘八百といったケースも少なくない。その点、
ドキュメンタリーの場合、目的地はあるようでハッキリしない。
劇映画のシナリオが、「図面」だとすれば、ドキュメンタリーのそれは、埋もれた財宝のありかを記した「地図」のようなものだといえそうだ。海図(チャート)か、秘密の巻物かも。まだ見ぬ宝島を目指して、この人物、この主題と向き合い付き合っていったら、どこかは定かではないが深くて魅惑的なところに辿りつけるのではないか、そんな予感と嗅覚で沖に向けて船を漕ぎ出す、そんな感じだろうか。これは、どこやらのTV局が得意とする「予定調和もの」とは決定的に異なる。あらかじめ結論ありきで、それを裏書する事象とコメントを恣意的に取材し適宜貼りつけた「枠もの」は普通ドキュメンタリーとは呼ばれない。
すべての映画を作るプロセスにおいて、スタッフと被写体との間の関係性のゆれ・揺らぎ・変化・進化・深化が記録されていく。その総体こそが観る者を見たことのない地平へと誘い出す。そこに映画と観る者の間で意識の往還・キャッチボールが始まる。それが映画の醍醐味だ。取材対象は生身をさらしているように見えても、カメラの前で自らを演じている。実はこれは、役者が演じるドラマの場合も同じことなのだ。映画には、役と生身の当人の二重化された姿が丸ごと映し出されている。ここでも、ドラマとドキュメンタリーは地続き、程度の差でしかないと言えそうである。
虚も実もすべてを呑み込んで、映画は進むのだ。