2ペンスの希望

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Plan 2 一気通貫

その昔、新聞はインテリ(似非インテリ?)が作ってヤクザが売ると揶揄されてきた。
映画にも似たような話がある。作る人と売る人は違う。撮影所や制作プロダクションと、配給・興行の世界では人種が違うとまで言われてきた。
そんな歴史が変わればいいな、そう思っている。
目指すは、作ることと売ること(=見せること+届けること)の一気通貫、全過程を貫いて走る長距離ランナー・プロデューサーの出現だ。
つまり、映画を企画して初号が上るまでの製作プロデューサーと、上映・興行を受け持つプロデューサーの統合を期待し準備すること、これである。
これまでは違った。
なんとか映画が作りたい、どうしても企画を実現させたい、そのためにとにかく諸々を算段し、キャスティング、スタッフ編成、撮影準備、撮影、編集録音仕上げを経て、やっとこさ映画を完成、試写にまで漕ぎ着ける。そのときには、疲労困憊、気息奄々。精も根も尽き果てて、ついでにお金も尽きている。そんな事例を見かける。じっさい映画を上映・公開するには、映画を製作するまでとはまた違う結構なお金と時間が掛かる。規模にもよるが、作るお金に負けない額のお金が必要となる。中小独立系の映画制作プロダクションにそんな潤沢な資金力があることは稀だ。まして、制作と興行では世界も人種も違う。ということになれば、公開についてはお任せします、配給・興行の専門家主導で進まざるを得ない。そんなケースが積み重ねられてきた。事実、映画を作るために動かす筋肉と、映画を広め集客するために使う筋肉は自ずと違っている。一人のプロデューサーに両方面白がれる資質が備わっているとは限らない。結局、餅は餅屋、劇場公開についてはお任せします、ということに落ち着くことになる。素人は黙っとれ、と新規参入を喜ばない風潮もある。
そうでなくとも、作り上げたらゴールイン、ひとまずは目的達成、満願成就という制作側の気分もなくはない。公開の目途立たず、お蔵入り。やがて塩漬けのまま、忘却。そんな時にも、「興行の連中は俺達の映画の良さが分っちゃいない」「商業主義に毒されている」あげくは「評論家の目は節穴だ」「観客は馬鹿だ」と親族・縁者・仲間うちで気勢を上げ溜飲を下げてオシマイ。そんな話も聞く。さらに、これは余り大きな声では言えないのだが、観客ゼロでもOK、ソロバンも合っている、という不思議な映画も実はあるのだ。(この話今は深入りしない。ヒントをひとつだけ→「新聞は購読料だけで賄われるのではない。広告料出稿の比重も大きい」そのでんでいけば映画だって‥‥)
観客がいなくても成り立つ映画なんて嘘、絶対にどこかおかしい、きっと何かが間違っているのだ!
話題を変える。
「映画は出来上がったら、作り手を離れてひとり歩きするもの、あとは観客の皆さんに育てて貰えれば‥」したり顔でこうコメントする人もいる。一抹の真理がありそうだが、しかしである。自分が産んだ子どもを「あとは知らないよ、どうぞご随意に」というのは如何なものか。どう評価されようと無視されようとそれは観客の自由、見る人の責任、オレ等は責任を負わないよ、と言われているようでどうも釈然としない。百歩譲って、監督さんやスタッフ諸氏はそれでも良いとしようか。しかし、プロデューサーの仕事は、それではすまない。制作費を算段して、作って、見せて、リターンを回収してこそのナンボだろうに。作りっぱなしで満足するプロデューサー、作っただけで息切れするプロデューサー、そんなプロデューサーは半人前というべきだろう。先に記したよう、確かに製作と配給・興行では、しきたりやビヘイビアも大きく異なる。加えて、昨今の技術革新とそれに伴う業界変化は目まぐるしい。以前のセル・レンタルビデオの興廃以降、DVD・ブルーレイ、さらにはネット配信等々、業界の通念・常識は改変を迫られている。そうなのだ、ピンチはチャンス。企画立案から制作・配給・上映・配信・販売までを一気通貫に貫いて絵を描くプロデューサーが台頭してくるチャンスだ。そうすれば日本の映画事情は変わる。きっと面白くなる。
最近、日本映画学校出身の大澤一生プロデューサーがこう発言しているのを読んだ。「重要なのは、今後ただ「作る」だけでなく、どの範囲にまで「届ける」意識を持てるかどうかだ」【2012年7月フィルムアート社刊『ソーシャル・ドキュメンタリー 現代日本を記録する映像たち』所収「ドキュメンタリーの「商業性」を問い直す」】
若い世代のプロデューサーが時代を動かしていく。そんな明日がもう始まっていることを夢想する。楽しみなことだ。見届けるまで、ロートルもくたばるわけにはいかない。