2ペンスの希望

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Plan 3 未開の沃野

CG技術の進化で、もはや作れない映像はない、撮れない世界はない、といわれる。
しかし、本当にそうか
撮影機材の軽量小型化で、入り込めなかった路地裏、秘密の花園への潜入も容易になった。かつては実機をチャーターした航空撮影もいまや模型へりで賄うことも可能だ。決してお薦めはしないが盗撮・隠し撮りもやりたい放題。デジカメ動画、携帯動画、監視カメラ、‥世界はカメラと映像に溢れている。24時間360度写せないものなど無い、そんな豪語も聞こえてくる。
しかし、本当にそうか
なら、どうして何を見てもだれも驚かなくなったのだろう。リアルを感じないのは何故だろう。実感も共感もないスカスカの映像がどれだけ氾濫しようとそんなものはゴミでしかない。感情鈍麻。アパシー
作られた(表現された)映像の力が弛緩し萎えているように思えてならない。
思えば、2001年9月11日NYの映像が一つのエポックだったのかもしれない。
もしかして、2011年3月11日津波の動画もそうなのかも‥
                      (このことは別途考えてみたいので今日はパス) 突然、話を変える。
ネット動画の世界では、暫く前から“ミニチュア動画”というのが話題だと教わった。
見てみたら、この“ミニチュア動画”、実写で撮影した風景や人間の動きを、あたかも模型かおもちゃ、ジオラマ映像のように加工するものだった。見た目のファンタスティック効果が狙いだろうか、作り物感全開。眺めていると、リアルな人間がおとぎ話の登場人物のように変形してテーマパークにでも紛れ込んだような不思議な気分に陥る。
この「リアルの漂白」とても時代を象徴しているように感じた。
これまでは、いかにホンモノに近づけるか、「よりリアルに」が合言葉だったはずだ。そのベクトルが変わった。「よりバーチャルに」が志向されている。それが進化なのか退化なのかは知らない。ただ。リアルな現実に引き戻すのではなく、バーチャルな世界に遊ぶ。それが時代なのだろう。
もひとつ、別の話をする。
先日南米コロンビアで作られたドキュメンタリー映画のDVDを見た。現地で何者かに殺された先住民族運動の活動家の死体が何度も登場する。見開いたままの眼、泡を吹いた口元。日本のTVではずっと以前から、死体はタブーだ。どんな戦場、どんな交通事故でも死体が映ることはない。それを逆手にとって、TVでは絶対に描けない過激描写を売り物にする映画屋が後を絶たない。縛りだらけのTVに比べて、映画はタブーなし。真実のメディアという謳い文句だ。しかしその実、皮相浅薄な煽情主義、センセーショナリズムの確信犯に過ぎないこともままある。(が、これもまた別の話。脱線の上の脱線になりそうなので深追いはしない)いずれにしろ、すぐそこにあるのに目をつぶってやり過ごしている“現実”は一杯ある。見て見ぬふり。考えて考えて考えて知恵を絞って絞って表現に落とし込む努力を誰がどれだけしているのか、それを伝えるメディアがどれほど機能しているのか、正直お寒い限りではないか。
こうしてみると、、
まだまだ描ききれていない未開の沃野はいくつもある。誰も皆、自分のうちに広がる脳内宇宙の大きさも、すぐ隣に生きる人のことも、いまだ知らないままである―どうやらそう考えた方がよさそうだ。
これまでも映画は目に見えないものは不得手、描けないとされてきた。
しかしここでも繰り返し言いたい。本当にそうか。
優れた映画は、目に見えるものを通じて、目に見えないこころの動き、心理(真理)や生理や感情などを描いてきた。その腕をいかに磨くか、それが映画の歴史だったといってもいい。
人の優しさや強さ、世の非情や温もり、無意識や観念の世界をどう描くか、具象、抽象、非合理の合理、時代や社会の見えない地下水脈をいかに見出すか、深堀りしたい課題は、すぐ目の前に、遙かかなたに、洋々と広がっている。今も、さらに。