2ペンスの希望

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Plan 5 脱・個

映画は一人で作るものではない、若い頃からそう教わってきた。
そのせいか、個人映画とか、映画作家というのは苦手だった。食わず嫌いという傾向無きにしも非ずだが、いまだに「作家」とか「作品」という言葉に対するアレルギーが抜けない。仕事を始めた頃はフィルムしかなかった。ムービーカメラも高価だった。個人ではとても手が出なかった。35mmは撮影所・劇映画仕様、16mmはテレビ・記録映画、8mmはアマチュア・個人映画・小型映画と截然と分かれていた。35mmで撮ることに憧れた。それが今デジタルビデオとなり、記録媒体はフィルムからテープ、ディスクに変わり、それすら姿を消してHDDやメモリーカードが主流だ。
大雑把にいって1分1万円以上だった記録コストが、いまや1分200円程度に下がった。畢竟、個人でも映画が作れるようになってきた。だから、一人で作って何が悪い、そんな声も大きい。フットワークもよければ、人間関係に煩わされることもない。自由にのびのびと思う存分作りたいように作れる。イイじゃないか。確かにそのとおりだ。
それでも、一人より二人 二人より三人、三人より四人、数が多ければ良いとまではいわないが、チームプレイ、徒党を組んでこその映画制作だという思いが強い。キイワードは、閉じないこと、さらすこと。それでこそ豊かになる、強くなる、そう信じているからだ。以前にも書いたことがある「複数の掛け算」これである。
そう理屈を捏ねるまでもない。もっと即物的・功利的なプラスがある。
一人でカメラのファインダーを覗いているとまわりの情況が見えなくなる。視野狭窄。誰か傍について居てくれれば、後に迫る危険も報せてくれる、もっと面白い出来事が起きていることも教えてくれる。一人では気付かなかった暗部・死角にも光を当ててもくれる。しんどい時には、代わってももらえる。
複眼思考 複眼試行 複眼志向 複眼嗜好
集合知集団知Wisdom of Crowds。もっとも、衆愚という言葉もある。掛け算はおろか足し算にもならないばかりか、引き算になることもある。うっとおしいこと、物分りの悪さにいらだつことも少なくない。それでも宗旨をかえるつもりはない。
もうひとつ、書く。
一人で作ると、どうしてもアクセル全開、ブレーキはおろそかになってくる
「俺の心の叫びを聞け」「私を見て」「私の思いに共感して」って感じの自我の吐露・爆発、意味がわかりきって「読み」の余地が少ない自己完結」【千野帽子さんの『俳句いきなり入門』NHK新書383 2012年7月刊の「ポエム俳句」の項から 勝手に引用】
そうなりかねない。それではいけない。だから脱・個
あらゆる表現物の中で、映画が図抜けて個人や作家性から離脱し豊かで猥雑な強さを持ちうる。その可能性に満ちている。そう思っているのだ。
運動会には、団体戦もあれば個人戦もある。個人参加があってもいいだろう。個人映画を否定するわけではない。それでも集団制作にこだわりたい。
ん?どうしてそこまで共同性を主張するのか?ですか。
そりゃあアナタ、人間一人で生きてるわけじゃないからですよ。