2ペンスの希望

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省略

どんな分野の表現でもそうなのだろうが、「省略」は重要な技法だ。
若い映画人とそんな話になった。彼は、アニメを例に挙げてこんなことを云った。
CGやアニメは、先人たちが積み上げてきた省略という映画の技法を台無しにしようとしている。技術の進化は、どこまでも精妙、完璧な表現を可能にした。結果、いらぬ精度が達成されてしまった。で、どうなったか。省略するという映画の技法が失われ、途中の動きのリアルさ、自在さを余すところなく見せることに力が注がれる。こんな動きも出来るぞ、どんなアクションでも見せるぜ、どうだ。実写映画にも、CGが進駐しワイヤーアクションも加わって、表層の刺激ばかりが肥大してきた。情けない」と。
確かにその通りだ。これでもかこれでもかのオーバーアクション、過剰サービス。一方では、おんぶに抱っこの説明過多。観客(の想像力)は全くアテにされていないようだ。
行間や余白の豊かさは何処にいったのか
先達は、ムダな説明セリフや描写を削り、表現の省略に腐心してきた。その蓄積が失われる。「映画は何が“見えるか”ではなく、何が“見えないか”が大事 なんだ」こんな言葉もどこかで読んだ。
省略こそ命
別の老監督とも同じような話になった。彼は「省略の究極は、何も語らないこと・すべてを観客の想像力にゆだねること、それが目標だ」と言う。
一本の映画を、できるだけ短い言葉で語りきることが出来るかどうか」とも語った。
そういえば、橋本忍伊丹万作黒澤明とのエピソードを書いていたことを思い出した。ともに、テーマは難解にしてはいけない。凝縮し簡潔で分かり易いものにすべし、と主張する。例えば、
『無法松』の場合<ある人力車夫の未亡人に対する風変わりな恋愛映画>、
『生きる』なら<後、七十五日しか生きられない男>。
僅か23文字、15文字で全てが言い尽くされている。
贅肉をそぎ落とし、スリムにシャープに。それはまた、比類なき凝縮でもあろう。弛緩した垂れ流しではいけない。
(もっとも肥満体のロートルが何を言っても聞く耳は持ってもらえそうもないが‥)