2ペンスの希望

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立ち止まって‥

最近立て続けに橋本治さんの本を読んでいる。小説『幸いは降る星のごとく』も面白かったが最新刊のエッセー『橋本治という立ち止まり方on the street where you live』もお薦めだ。【2012年10月朝日新聞出版 刊】
橋本治の何が凄いかといえば、森羅万象すべてを他人事にしない「眼力」だ。平熱のラジカリスト無重力アジテーター。そんな言葉が浮かぶ。ご当人にすれば「そんなの当たり前ジャン、だって皆自分のことだし、今この国に生きてるんだから」と涼しい顔をされそうだが、どうしてどうして、曇りなく見通すその眼力は並外れている。今わが国に「橋本治」をひとり持っていることがどれほど心強いことなのか。幾つか挙げてみる。
例えば、「本が売れない」ことについて:
本はもう閉ざされているのかもしれない」と題してこう書く。
ある限定された人達に集中的に読まれることによって、まとまった数は出るけれど、それ以外の人には関係がない」というあり方をするような本が多くなっている――ということらしい。(中略) 必要な人に必要なものが行き渡ったら「終わり」で、その外には広がらない。たとえ瞬間的であっても「それを必要として求める人」の数が多ければ、それでいい。他の人は「知らないまんま」になってしまう。(中略) 理由はいろいろあるのだろうけれど、私の思うところは、「本を読む」ということをしたことがない人間が増えて、だからこそ「本を読む」ということが起こらないのだろう、ということなのだけれど。
字は読めるが、本は読めない。短いセンテンスなら読めるし、読まなきゃいけないテキストやマニュアルの類は読めるが、「本」は読めない――もしかしたら、そういう人間が激増しているんだろうなと思う。「もしかしたら」ではなく、「きっと」だろう。だから、そういう人達にとっての「読める本」だけが「売れる本=出版可能な本」で、それ以外の「本」は、本ではない――少なくとも「売れない本」になる。私にしてみれば、「売れない本」の方が「本」で「なんだか知らないけど売れている本」は「本」ではないようにも思われるのだけども、そういうことになると、「本とはなにか?」になってしまう。

と‥‥ここまで来れば勘のいい読者なら「本」⇒「映画」に置き換えて読み直して欲しいという願いに気がつくのではなかろうか。
で‥‥「映画てなんだろう?」いや「本てなんだろう?」について簡潔にこう記す。
自分が納得した本には、ある傾向があることが分かる。それは「おもしろい本」であり、同時に「ものを考えさせてくれる本」だった。「ものを考えさせてくれない本」だと、別に「おもしろい」とは思わなかった。
別のところではこうも書いている。「‥本というものは、「人を動かすもの」でもあって‥
そうだよなぁ「ものを考えさせてくれる」・「人を動かす」。それが「映画」なんだよなぁ。
あとがきには、こうあった。
「立ち止まって」「振り返って」「しんどいけど、歩き出すしかありません」普通のことしか書いてないのに、どこか沁みる。