2ペンスの希望

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「すべて読め」

藤谷治『こうして書いていく』引用シリーズ(=ラクチン手抜きバージョン)
二つ目 「すべて読め」から。
相当な読書家であると、自他共に認める人もいるだろう。それでは足りない
(中略)どっちかといえば読んでいる方だとか、読むべきものは読んでいるとか、読みたい本があるという程度では不十分である。すべて読まねばならない。
よく人から聞く台詞に、書いているときは読みたくない、というのがある。他人の書いたものを読むと影響を受けてしまって、似たようなスタイルで書いてしまう、あるいは書いてしまいそうになる、というのだが、甘っちょろい根性もあったものだ。一冊や二冊読むから影響を受けるのなんのという話になる。百でも千でも読めば、そんな優雅なことはいっていられなくなる。いっていられなくなるまで読むべきであろう。自分で書くのはそれからにした方が、恥が少なくてよかないか。

これと決めた作家の書いたものを、手紙や日記も全部読めと文科の学生諸君へ勧めたのは小林秀雄だ。(中略)その人の書いたものを読み尽くすとはすなわちその人をしゃぶり尽くすのと同じだから、初めはなんとなくただ好きだったり尊敬しているだけの人間が、欠点もあれば失敗もし、よんでいるこちらのどうしても好きになれない一面も併せ持っているのが見えてくる。それは、読書の大きな成果であるばかりではない。読者がそのまま「人を知る」という巨大な体験になる。だがそれだけでは足りないのだ。好きな作家をしゃぶり尽くしたあとは、読んで楽しめない作家、退屈な作家、とりわけ、なんとなく自分の趣味じゃないなと思う作家の作品に、自分からぶつかっていくことが大事になる。しかもそういう作家を、つまらなかったとただ放り出してはいけない。なぜそれを自分はつまらないと感じたか、どういうところが退屈か、どんな種類の拒絶反応を、自分は感じたのか、そして、自分ならどうやってこれを面白くできるかを考える。それは好きな作家を読んで感心するよりも、はるかに自分を知ることにつながるだろう。自分の作品を作ることにもつながるだろう。
だが、好きな作品や嫌いな作品を読むよりも、さらにさらに有益な読書がある。それは、自分とは縁もゆかりもない本を読むことだ。ミステリにしか興味のない人間が戦後左翼文学を読む。音楽にしか興味のない人間が編み物の本を読む。
(中略)すべてを読め、というのはそういう意味でもあるだろう。あなたがどんな人間であろうと、あなたより書物の世界の方が広大なのは明らかなのだから。
こう書いた藤谷は、もちろんさらにこう書く。
すべてを読みおおせた人間はいない (中略) すべてを読むことはできない。ましてや私(や、あなた)は、一体何冊の、遂に読みえない書物を遺して、この世を去らねばならないのだろう。私たちは皆、未読の名著をあらかじめ約束されている存在なのだ。この悲しみを前に私はいつもため息をついてしまう。すべてを読もうなんてハナから思っちゃいないよ、などと、この真実を軽くあしらえるような人間には、この悲しみは理解できない。
【註:太字は、藤谷本=原文表記では傍点付きで強調】
読書・書物⇒映画と置き換えて、どうぞ。