2ペンスの希望

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円い写真 浮力 読める写真

宮本常一と写真』という本を読んだ。
書いたのは石川直樹さん 1977年生まれの写真家だ。
宮本常一は日本中を歩き、生涯240冊のファイルにのべ10万点近くの写真を撮った。
彼の写真について語る石川さんの言葉が印象的だった。幾つか挙げてみる。
写真は言うまでもなく四角いフレームの中に収まる。が、宮本の撮った写真を見ていくと、写真が丸みを帯びているようにも感じる。四角い写真というより、フレームを丸くやわらかくしてしまうような、円の写真なのだ。(中略)それは、カメラマンのまなざしとは、また一線を画すものである。宮本は、表情を撮るのではなく、着ている服や使っている道具、立ち居振る舞いや身振りに興味があった。その全体像を写し取りたいがゆえに、ずかずかと土足で寄り急ぐのではなく、被写体との適度な距離を保っていた。
ある部分だけを四角く切り取って強調するのではなく、余計なものも含めて世界なのだ、宮本はそう主張しているのではないか、と石川さんは指摘している。
世界のあらゆるものを全身全霊で知覚しようした」とも書いている。
もう一箇所。
宮本写真独特の「浮力」のようなものをぼくは感じてならない。‥浮遊感や流動感‥(中略)何か常に揺れている。‥ぶれていないにも関わらず‥」とも。
中身はずっしり詰まっていて重い。重力は十分持ちながら浮力も併せ持つ写真。
同じ本で「宮本の押しかけ弟子」を自認する民俗写真家・須藤功さんはこう書いている。
宮本先生から幾度も言われたことは「私を出すな 読める写真を撮れ」ということです。(中略)主観を交えない記録写真。たとえば畑を撮ったら、その畑の広さと畝作り、そこで何を植えて、どんな保護柵があるかがわかるような写真を撮れ

何故、そんな言葉が印象に残ったのかと言えば、山根貞男さんの「日本映画時評」最新原稿を読んだからだ。山根さんは日本映画の最新作についてこう書いている。
見る者の恣意の充填によって(やっとこさ)存在する映画」(以上 強調・補足は引用者)
作り手の舌足らず、一人よがりだけで、中身なし。空っぽ。映画空転・空回り。
映画もどき、ふりをしてるだけ。本当に伝えたいこと・見せたいことが本当にあるのだろうか。あれば何がしかが伝わっているものだ。
見る者の恣意・勝手な埋め合わせで初めて映画になるような映画は映画じゃなかろう。
何十年も映画を観続けてきた映画評論家が、読めない映画。責任は評論家より映画の方にあると思いたい。