2ペンスの希望

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87−02「説明」と「描写」

山根時評この号は、「説明」と「描写」についての考察だ。「説明」と「描写」は違う。
山根さんは言う。「描写に力がない」「説明らしきものはあるが、描写それ自体が画面にないのである。」「波瀾万丈も哀切も、たんなる絵でしかない。それゆえドラマは、筋立てとして了解できるだけであって、描出されてあるものとして受け取れはしない。問題は、まちがいなく画面の美しさにある。画面の美しさがたんなる画であり、その場かぎりの美しさでしかないから、ドラマを表出しないのである。もっと素朴にいえば、個々の画面はすばらしいが、全体としてそれが連なり、展開し、うねってゆくことがない。
【註:青字部分は、山根時評からの引用箇所 以下同様】
具体例も挙げている。ある映画のワンシーン。
映画女優役のヒロインが「夫と喧嘩をして逆上し、オシッコをしてやる、と叫んで、居間の一角にしゃがむ。画面はそこでとんで、畳の上の小さな水たまりをうつす。夫がそれを拭き取る。これでは描写になっていない、描写とはいえない、とわたし(=山根)は思う。」「いや、なにもわたしは、女優にオシッコさせよ、といいたいわけではない。」「こういう省略法は、よくあるもので、さして珍しくはない。きわどい描写を避ける省略法の伝統は昔からある。」「いいたいのは、画面ばかりがあって、その陰で描写が欠落したまま放置されているということである。描写がなくて、映画が映画として成立するわけがない。」「すべては見かけだけのことに終始している。
「見かけ倒し」では「芸」とは呼べない。
映画が芸術かどうかに興味はないが、映画が「芸」術であることだけは間違いない。
よって、教訓その5は、映画は「芸」術