2ペンスの希望

映画言論活動中です

物語の現在

今日も理屈っぽい論を‥少々。

フランスの高名な思想家の指摘を待つまでもなく、「大きな物語」が成立しづらくなっている。天下国家、民族、神、戦争と平和、社会変革、共産主義‥‥などを正面に据えた
物語は敬遠され、背景化して久しい。大きな物語から小さな物語へ。
純愛、家族愛、友情、‥身の回りの等身大の物語が持てはやされる。葛藤や矛盾の素(栄養源)は、老いや病気(難病)、不慮の事故などが多く選ばれる。それが駄目だと言っているのではない。四畳半からでも宇宙は見える。犬の散歩の道すがらにも古代は見つかる。
「物語の優位からイメージの優位へ」(H先生)「物語そのものではなく、その構成要素が消費の対象になっている時代」(A先生)という発言もある。
物語<イメージ:省略や飛躍の小気味よさより、すべて見せますという(嘘の)サービス         精神の優先。これでもかこれでもかの執拗・間を埋め尽くす冗長性・網羅         性が尊重される(「実写からアニメへ」O氏の評論)
物語<登場人物:登場人物は物語や筋から出現するのではない。物語の方が登場人         物によって分泌される(カサヴェティス映画に対するドゥルーズの分析)
物語<キャラ :物語はキャラクターの性格から規定される(或るゲーム・デザイナーの                                               コメント)
つづめて言えば、物語<(作家の)世界観 ということにでもなろうか。
しかしである。
映画は、アトラクションやゲームである前に映画なのだ。少なくとも拙が出会ってきた映画はそうだった。映画館はテーマパークでもコンサート会場でもない。ゲームセンターとも違う。観客は、お金を払って物語を観に来るのであって、作家の世界観を知りたがっているのではなかろう。物語を通じてその世界観を受けとめることはあっても、その逆ではない筈だ。そう思うのは、古臭く時代遅れなのだろうか???