2ペンスの希望

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脱・私

今日も、清水良典さんの言葉から。一時ケータイ小説というのが話題になった。出版されてベストセラーも幾つか生まれた。今もネットのサイトは大繁盛みたいだ。
昔の文学好きは、ケッあんなもんは小説でも何でもない、と冷ややかだ。確かに、薄っぺらでステレオタイプなストーリーとキャラクター造形はお粗末といえばお粗末。しかし、清水良典さんはこんな風に書いている。
彼ら・彼女たち(携帯小説の書き手たち)は、古典的な作家性なぞ求めていない。ある意味 超えている。ステレオタイプな物語の鋳型で自己を覆い包むことで、本当の孤独を外界から見えないようにして抹消している。「自己」はそこで抹消され、同時に保護されている。彼らは表現者として「自分の土地」など最初から持っていないし、持つことを望んでもいないのだ。」【太字 引用者】
こんな要旨だったと記憶する。(少し前に読んだので、うろ覚えの引用でご容赦願う。)
自分が書くものに対して過剰に個性や独創性を求める習性を脱し、「作家」というマッチョ・男性性は衰弱した。」とも指摘していた。
何故そんなことを思い出したのか。
最近、親しいディレクターが若いアーティストにインタビューした映像を見せてもらったからだ。映像の中でアーティストは
(十代の頃から)人間じゃない何かになりたいと、ずっと思ってきた」と語る。
自分が男性であることや女性であることを超えた「無・性」への憧れ、私が溶け出して私でなくなる、私という個を超えた公共・共有物・メディア、名もなきものになりたいという願望。‥‥何を言っているのかはよく分からない部分もあったが、映像からは何を言いたいのかその切実さはしっかり伝わってきた。
不意に、「透明な存在の僕だから」という酒鬼薔薇聖斗の言葉を思い出した。
本来、個人のものでしかない「人生」や「作品」から離脱したい思い。これまでの無名性や匿名性ともちょっと異なる《孤絶性》という言葉も浮かんできた。
無・私ではなく、 非・私、 脱・私、 超・私、 解・私、 溶・私 ‥‥。
現実世界の息苦しさは臨界点をはるかに超えて、OS(オペレーション・システム)が変わったのだろうか。まだよくわからない。が、引き続き考えて行きたい。(この項 続く)