2ペンスの希望

映画言論活動中です

芸の有無

学者・研究者先生は本当にスゴイ。皮肉ではなくそう思う。
映画について、「意味に収まりきらない過剰な何か」という十五文字を語りきるために、何年もかけて文献をあさり、二百五十頁を超える学術書を出版する。そのエネルギーには感心する。しかし、用語の難解さには辟易だ。spontaneityという言葉に自生性という訳語があてられ、「人称的な視線によって捉えられた『自然』」といった言い回しが頻出する。[引用は長谷正人さんという社会学者(専攻は映像文化論とのことだ)の『映画というテクノロジー経験』【2010年11月・発行 青弓社】から]
学の厳密さを尊重するが故なのだろうが、言い回しが難しくて読み進むのに難儀する。時間をかけた考究なのだから、時間をかけて読め、ということなのかもしれないが‥
いささか辛い。
井上ひさしの言葉を思い出した。
むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことはあくまでもゆかいに
くだんの長谷先生、存じ上げないがきっと真面目な方なのだろう。しかし、「芸が無い」とも言いたくなってくる。言葉の芸があれば、学者にならなかったのではなかろうか、と邪推したくもなる。
それにしてもこの十年あまり、映画の世界では「学者・研究者」と「映画監督」が急増した。インフレここに極まれり。一方で、実作の戦場はお寒い限りだ。嗚呼!
(ちなみに、spontaneity→ロートルには「自然発生性」と訳して貰った方が分かり易い。「目的意識性」の対概念だと理解すればすんなり受け取れるのだが‥。新しい訳語を編み出さなければ、商売にならない、ということではなかろうと思うが‥どうだろうか?)