2ペンスの希望

映画言論活動中です

「名誉を引き受けること」

ナンシー関が好きだった。その加減か、弟子筋の小田嶋隆さんの「日経ビジネスオンライン」の連載コラム「 小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句 』 〜世間に転がる意味不明」を愛読している。2018年8月31日の記事から。
或る人が、或る席で(さして上手くもない)ピアノ演奏を披露したときの会話。
小田嶋「弾きたいのなら好きに弾けばいいじゃない
知人の(音楽)専門家「それは違うよオダジマくん。
    楽器を弾くということは、その楽器の名誉を引き受けること
    どんな楽器であれ、ある程度練習してその楽器のことがわかってくれば
    自分が人前で演奏して良い腕前かどうかは、おのずとわかってくる。

小田嶋「というと?
専門家「楽器を弾く人間にとって一番重要なのは、他人が聴いてウマいとかヘタ    だとかじゃなくて、自分が自分の演奏を正当に評価できているのかどうか     だっていうこと。そういう意味で、あの得意満面な演奏は、自分の技倆を    自覚できていないという意味で、最悪
楽器」を「映画」に読み換えたくなった。

「眼も鼻もない時代をこえて‥是から」

ブログは、日記兼備忘録。それ以上でもそれ以下でもない。
と云うわけで、今日も日記兼備忘録。
昨日、久しぶりに封切り初日に映画館に出掛けた。大阪梅田の地下映画館。週末初日の三回目の上映、96席のほぼ六割が埋まっていた。まずまずなのかイマイチなのか、浦島太郎にはよく分からない。けれど、いつも利用する映画館よりは年齢層が若かった。二十代三十代の男女ひとり客を中心に、年配カップルがちらほら、拙管理人クラスの高齢者も少々‥という塩梅。
映画は良く出来ていて満足した。
数日前から読んでいる長谷川郁夫さんの本『編集者 漱石』に、明治三十九年十月十日漱石が英文科の教え子若杉三郎に宛てた手紙が載っている。
明治の文学は是からである。今迄は眼も鼻もない時代である。是から若い人が大学から輩出して明治の文学を大成するのである。頗る前途洋々たる時機である。僕も幸に此愉快な時機に生まれたのだからして死ぬ迄後進諸君の為めに大なる舞台の下ごしらえをして働きたい。」【長谷川郁夫『編集者 漱石』163頁上段 新潮社 2018年6月30日 刊】
長谷川さんは「漱石サロンのマニュフェストだったのではないか」と記す。
明治の文学」を「現代の映画」に置き換えて読んでみたい‥と夢想した。

『ハッピーアワー』論

濱口竜介さんの映画については何度か書いてきた。菊地成孔さんの評論「シネフィルである事がまたOKになりつつある」なども読んできた。(ご興味の向きは ⇒ https://realsound.jp/movie/2016/01/post-711.html)
この夏、2015年劇場公開映画『ハッピーアワー』について、論じた一冊の本を読んだ。三浦哲哉さんが、5時間17分の長さに向き合った一冊。仔細は現物にあたって貰うしかないが刺激的だった。さわりを少々。
世界をまあたらしく見る、ということと、足元が揺らぐということはおそらく 表裏一体であるだろう。
「手に負えないもの」「想像を超えるもの」「どうしようもないもの」を尊重 し、それらと丹念に交渉しつつ、その交渉プロセス自体を(映画に)織り込む ことによって構成されることが目指された‥‥‥

ポスト・ハスミン、映画と評論の今日的地平が開かれている予感。褒め過ぎ?
それにしても、今日的な映画は、一度見て終わりじゃなくて、何度も賞玩・吟味するものになったようだ。喜ぶべきか、悲しむべきか。
評論の困難はここいらあたりにもありそう。

雲と泥

またぞろ 発作的な更新でゴメン。
人の映画をとやかく言うのはいい加減 止めたら‥とさんざん各位に諫められてるのに、「アンタ三十年間何を積んできたの」と言いたくなる日本映画を観た。
思い付きと思いこみだけでは、悲しい、哀しい。或る人の映評で半世紀以上前のフランス映画に触れていた。それがコレ。封切り時、京極で見た。

教養も歴史理解も表現技能も何もかも、雲と泥。敵わない、叶わない。

久方振りに

久方振りに、新しい映画に出会ったので、備忘録的に書く。
春本雄二郎監督の映画『かぞくへ』
春本監督ググってみたら、1978年神戸生まれ。日芸の監督専攻を出たあと 松竹京撮でテレビの仕事を重ね、フリーとなって今は東京で活動中らしい。
『かぞくへ』は長編初監督作。じわじわと観客動員が拡がっているようだ。

正直 予告編の出来は芳しいとは言えない。が、本編は時間をかけて丁寧に練られている。(撮影日数じゃない。熟成期間!)太鼓判。スマホLINE世代の新地平。機会あればご覧あれ。

ズル

本好き芸人“オードリー”若林正恭さんが、懇意な小説家たちと語り合った「文筆系トークバラエティ」本
『ご本,出しときますね?』【ポプラ社2017年4月 刊】がばらつきはあるが拾い物だ。
もとはBSジャパン30分の深夜番組らしい。
角田光代×西加奈子×若林正恭の回。
角田:小説には意外とズルがあるんです。たとえば、ふたりの人間が出会うシーンで、どうしてそのふたりがその場にいて、出会ったのかを、丁寧に、自分が信じられるようなシチュエーションで書かなきゃいけないんだけど、やっぱり「ズルをしちゃおうかな」というときは、パンとぶつからせて。端折るというのかな。
若林:なるほど。俺は、ネタを書くときにズルしてるな。「ズルしない」というのは、そこで   もう一歩踏み込んで、出会う必然性を考えるってことですね。
角田:小説はズルができる
西 :意外とできる。
若林:小説は、突き詰めればキリがないですね。どこまでやるかという問題もあるね。
西 :自分が信じられるということが一番大切かも。こっちが「こんな出会いないやろ」と    思いながら書いたらダメだし。
若林:ズルをして、自分がしんどかったから、もうしないように決めたんですか?
角田:そうです。
    やっぱり、書き終えても書き終えても、ズルをした気がするんですよね。

若林:「もうちょっとここ頑張れた」って思いますよね。完璧や百点はないですもんね。
   西さんはどうですか?

西 :ある。二作目の『さくら』という小説で、主人公のお兄ちゃんが自殺するの。当時は   本気で書いたの。でも、後から「死なせることはなかった」ってずっと考えてたの。   事故に遭って死なせるって、駒やん。登場人物を駒にして、それで家族が団結して。  無駄に死なせたというのがずっと苦しくて。だから『サラバ!』という小説を書いたとき   は、もう絶対に神様の起こしたアクシデントではなくて、髪の毛が薄くなってきたとか、  誰にでも起こることで変化させていこうと誓った。当時『さくら』を「よーし殺しちゃえ」と  いうノリで書いたわけでは決してないんだけど。でも、ズルしたらずっと苦しいから。   ズルをしないで苦しむほうが楽しい。
映画だって同じこと。云われなくとも、ズルは自分が一番よく分かってる

その差 70倍

昨日の続き。
何も手塚治虫はストーリー漫画だけの大家だと言いたいわけじゃない。
ギャグキャラクターも豊富で秀逸なことは、周知の事実、衆目の一致するところだろう。

手塚ギャグ・スター・オンパレード。
旗持ちは、言わずと知れた超有名人「ヒョウタンツギ」さてあとはどれくらいご存知か?全部判る人は手塚検定上位者と認定されそう。(もっとも管理人は、検定とか認定とかは大嫌いだが)  「おむかえでごんす」の名セリフを持つキャラも混じる。
いずれにしろ、アトムやブラックジャック火の鳥だけが手塚なんじゃない。彼の世界が果てしなく拡がっていることを少しでも知ってほしい、そう思ってきた。そして同じほど知ってほしいのが、杉浦茂をはじめとする漫画家の存在だ。
試みに今、グーグル検索で「手塚治虫」と入力してみたら、約5,590,000件ヒットした。
比べて「杉浦茂」は80,400件。
その差約70倍。あくまで管理人の主観だが、それほどの差があるとは思わない。
もっとも、それが世間というものさ。世の中の実相、社会の評価・反映。そう云われたら返す言葉はない。ぐうの音も出ない。