2ペンスの希望

映画言論活動中です

特装本

新潮社には単行本の発行部数が10万部を突破すると、表紙が革の特装本を作って収納保存するそうだ。1956年刊行の三島由紀夫金閣寺』に始まった伝統らしい。高度な技術で一冊一冊手作りで作られる。いまでは手掛ける職人さんはたった一人になってしまったともある。特装本は全部で四冊つくり、二冊は著者に残りの二冊を書庫で保管するのが慣例みたい。

一列まるまる村上春樹の棚もあった。

膨大なオーファンフィルムがある映画界には羨ましい話だ。なに? NFAJ:国立映画アーカイブFPS特定非営利活動法人 映画保存協会 もあるじゃないかって、か。うーん、うーん、うーん、‥‥ うえーん、‥ ぴえん。

経済と科学技術

いつの時代にも、どんな社会でも、人間世界のあらゆる事象は、とどのつまりは、「お金」と「技術」の問題に行き着くのだろうか。

数とお金をどこまでどう意識して事に当たるのか、どこまでを算段して図面を描くのか、そのためにどんな技術を選んで身に着けるのか‥‥、誰とどんなタッグ・徒党を組むのか‥‥懐具合との相談。腕の見切り 見極め。

ロートルには、今の日本「前向きな後退戦を強いられている」ように見えて仕方ない。映画だけじゃない。キツイ時代が続いている。

ペンネーム ハンドルネーム

ペンネームというのがある。昔々からある。実名を伏せて筆名で執筆した創作物。名のある作家であることが知られることもあれば、訳ありで秘した覆面作家というケースもある。人によっては、ジャンルや内容によって複数ペンネームを使う例もある。ラジオ投稿では、ラジオネームといわれる。芸人なら芸名、芸者なら源氏名といったところか。

SNSが登場して、事情は変わった。ネット界の投稿者は通常 ハンドルネームを使用する。実名は隠し、年齢、性別、職業などあらゆる素性は明らかにせず、アイコンもイラストにして匿名性の海に沈んで活動する。一方で人気YouTuberや、著名インフルエンサーとしてマスコミに登場する有名人も増えた。

一方で、大手新聞界隈では、いまもなお、ペンネーム寄稿(家)掲載OK、ハンドルネーム寄稿(家) 掲載不可というところがあるようだ。

実名・本名仮称・仮象有名無名記名性匿名性実話作り話、‥‥

はてさて、一体どのあたりに線引き・ガイドラインがあるのだろう。さらに言うなら、そこに違いはあるのだろうか。

進歩と後退 或いは 利便と貧寒

パソコンで原稿を入力して、メールで送って入稿するようになって、手書きの自筆原稿は消滅した。

かつての手書き原稿の稀少性・高額売買人気は過去の遺物になってしまった。

技術の進歩が何かを消し去ってしまうことにもう少し注意深くなってもいいんじゃなかろうか。効率便利と引き換えに失われていく息遣いの軌跡・物事が生まれるまでの冗長性・試行錯誤・行きつ戻りつの逡巡・ためらい‥の消去。

原稿がデータでやりとりされるようになれば、筆跡そのもの・現物がなくなる。

行間が失われ余白が消えて、情報や意味や結果の見てくれだけが流通する時代の素寒貧。素っ気なさ。不愛想。不愛嬌。ぶっきらぼう

『「坊ちゃん」の時代』 追記

『坊ちゃんの時代』からもうひとつ。「第三部 かの蒼空に」 

主人公は啄木石川一。強心臓の浪費癖。前借・寸借の常習犯。女郎買いを生理的無駄遣いと日記に書く。自分の性格の底にひそむ逃避癖と放埓さ(の必然)を自覚した近代人。夭折の天才歌人像をくつがえし、生活破綻者、愛すべきゲスとしての啄木像を活写した快作だと読んだ。

もとより、実像を知っても、短歌の精華は変わらない。

そこが文芸の底力。悩ましいことだ。

□ 追記

ちょうど 京都国際漫画ミュージアムで「描くひと 谷口ジロー展」が開催中だったので、出かけて啄木の原画展示を見て来た。

『「坊ちゃん」の時代』 五部作

『「坊ちゃん」の時代』を全巻 読んだ。1987年から1996年まで双葉社刊行の雑誌『漫画アクション』に連載された大河漫画だ。「凛冽たり近代なお生彩あり明治人」の冠詞を持つ。

漱石夏目金之助を中心に明治の文学者たち政治家たちが登場し、時代や世相を描く全五部作というスケール。

原作は関川夏央が責任を持ち、作画は谷口ジローが担当、二人の共著というしつらえ。

漱石の病は 近代社会で はじめて自我に目覚めた日本人の悩み あるいは西洋を憎みつつ 西洋を学ばざるを得なかった日本知識人のジレンマと まさに同根であった」というのが関川の執筆モチーフだった。

 

実在の人物を登場人物として、「この人とこの人が、この時点でもしも出会っていたら」という仮定をおりまぜる手法。凝った作りが面白い。

 

第一部「坊ちゃん」の時代

この部は、自らが「坊っちゃん」のモデルであると主張した太田仲三郎(=太田西涯)による手記『明治蹇蹇匪躬録』(めいじ けんけん ひきゅうろく)を原典としている、という設定である。太田仲三郎は本作品における創作上の架空の人物で、『明治蹇蹇匪躬録』も同様に本作品における創作であり、いずれも実在しない。(元双葉社コミック部門編集者で劇団☆新感線の座付作家である中島かずきが附録の冊子のエッセイにこう書いている。「嘘をつくならこのくらいハイレベルで鮮やかなものにしたいと、これは作り手として目標にしている」)

闊達自在な作り物漫画なのだ。

何か所かお気に入りを引いてみる。

いってみりゃ 小説なんざ おもいきりの すこぶるつきに 悪い負け惜しみか 頭の屁 みたいなもんだよ」(漱石のセリフ)

牛飼が 歌よむ時に 世の中の‥ 新(あらた)しき歌 大いに興(おこ)」(山県有朋主宰の歌会の席で伊藤佐千夫が詠んだ。これに「言葉が過ぎやせんか‥これは社会主義‥ではないのか‥と詰問する山県・桂太郎ら政治家たちに「思想ではありません 心意気です」と切り返す文学者 鷗外森林太郎【太字強調は引用者】

 

作者二人の言葉も ひとつずつ引用しておく。

関川「日本のマンガは、本来小説や映画やらに向かうはずだった人材がつぎつぎに参入し、多くの果実を得た。興味の対象を貪欲にひろげ、思惟的世界から荒唐無稽まで、細緻から粗雑まで、心理劇から段取り芝居まで、退廃から前衛までのあらゆる部分をカバーするまで増殖した。

谷口「背景や小道具も、記号としてそこにあるものではなく、ものいう風景として描いてみようと心掛けた。人々の生活する場所に奥行を持たせ、立体的に明治という時代を描けないものかと考えた。そして学んだ。漫画の持つ表現力の幅の広さを。背景や風景が物語を語ることもできるのだということを。

細部にまで行き届いた目と手が、空気までを描き伝えて読ませる。

ムービー・ルネッサンス

❝ムービー・ルネッサンス こなれの悪い折衷外国語でゴメン。なに、古典に還れ、という運動、そのスローガン=キャッチフレーズのつもりだ。もとより誰かが言ってるわけじゃない。誰も知らない言葉だ。昔々〝ヌーヴェル・ヴァーグ〟という言葉が一世風靡し、映画の歴史を変えていったひそみに倣って思いついた命名

趣旨はこうだ。

迷走・暴走、脱輪・脱走する迷子の「孫たち」でなく、放埓・放恣の「放蕩息子たち」でもなく、その先の時代に沃野を拓いた「映画の父たち」に戻ってみよう‥という呼びかけである。

ラファエロ・サンティのフレスコ画アテナイの学堂』1509年 – 1510年?

映画の新作に取り組む御仁は、ぜひとも「父の時代の良品」を探索・渉猟して欲しい‥という切なる願い・叫びだ。

半径50メートル、ご近所のサブカル漁りは止めにして、ハイカルチャーの映画に出会ってみては‥という提案だ。

路地裏、横丁、裏通りをこそこそ歩くばかりじゃなくって、まずは大通り、メインストリートを歩いてみては‥という映画の王道闊歩のススメだ。

重箱の隅をほじくるより、まずは中央に並ぶ美味しい(評判の)メイン料理を味わってみるほうがよほど健康的で精神衛生にも適っている。

闇に浸って目を凝らし耳を澄ませ息を吞んで光と影に見入る洞窟体験を思い出し想像し自ら体験してもらいたい。

* * * *

落語にたとえて もう一くさり。

圓朝に始まり、圓生志ん生文楽小さん らの時代を経て、談志・志ん朝・枝雀が居たことを踏まえて、あらためて古典の豊穣に光を当ててみたい。❝ムービールネッサンス❞はそういう試みだ。

賛同者 募集。参集 随時。