2ペンスの希望

映画言論活動中です

荒川洋治讃

荒川洋治に、はまっている。
荒川は、詩や文学は今〈視野狭窄〉に陥っていると指摘する。
他人事ではない。

まずは2011年9月刊『昭和の読書』(幻戯書房)から‥‥
「その作家のことだけをある程度知るだけであり、同じ時代に活躍した作家とのつながりには関心がない。文学の全体的な光景に興味がないのだ。村上春樹の読者ではあっても「文学の読者」ではない。
「視野を閉ざすための読書が進行している。
「いま詩人たちが熱心にしていることは、いくつかある。自己満足と自己陶酔の朗読会。互いに傷つくのを避けるため、討論会はしない。うわべだけの国際交流(ただの観光旅行と、かたちだけの会議であることが多い。まったく不要なものだ)。保守的な仲間づくり(若い人たちに多い。他人との接触を嫌い、自分の詩を好きだといってくれる人とくっついているので、それ以外の人からの批判に弱い。保守的なので権威にも弱い)。確立しているのはこの三つである。」

「文学・詩」を「映画・映画人」に置き換えて読みたい誘惑に駆られる。

つぎに2004年12月刊『詩とことば』(岩波書店 シリーズ「ことばのために」)から‥‥
「‥詩が過剰に「私物化」される動きをくいとめなくてはならない。これからの詩は、詩とはこういうものであるという、詩の力、可能性、役割、宿命、課題を、詩のなかで示していく。おおらかな空気のなかで書く。そんな詩の書き方が必要だと思う。自分のために詩を書く時代は終わった。詩の全体を思う。思いながら書く。そんなやわらかみをもった詩を構想する必要がある。」

そして2009年12月刊『文学の門』(みすず書房)‥‥
「昭和期に活躍した作家田宮虎彦は、ある対談でこんなことを述べている。同時代の作家、井上友一郎が「読むのは好きですよ」というと、田宮虎彦は自分もそうだとして、こう語る。
『小説を読むというのと、書くというのは同じことじゃありませんか。たとえば、僕は自分で書いて一つの世界を作りますね。読んでいる場合でも、やっぱりそれを材料にして世界を作るわけでしょう。だから読者の文学はあり得ると思うのです。書く人と別のものではないという感じがするんです。つまり、本当に理解出来れば、いい作品を読むことはいい作品を書くということと同じだと思うのです。自分で解釈し、自分で組立てるわけですからね。(中央公論社『日本の文学64』1970/月報)
いいことばだと思う。書くことだけではなく、読むことが世界をつくる。読む人のもとで、世界は生まれる。あらたまる。」

「読者の文学」⇒[読者の映画」 魅惑的なことばだと思う。

‥ん、何、このところ引用が多すぎるって。
いや、あのそのこれは‥ JLGゆずり
真っ赤な嘘です。失礼。