2ペンスの希望

映画言論活動中です

ウデ=腕前 腕っ節 腕力

ウデ論のつづき。

「作りやすくなった。けど、食えなくなった」結果どうなってきたか。本業は別に持って、余暇で(余剰で)映画をつくる人(つくらざるを得ない)人が沢山出てきた。いや、俺は映画が本業であって決して余技でなんか作っちゃいない、という反論がすぐに聞こえてきそうだ。確かに、主観的にはそうだろう。ただ申し訳ないが、思いつきと小手先で作った映画が「みんな(フツーの観客)」に届くことは、思っている以上に難しいものだ(と心得るべし)。いやぁ劇場でも公開して好評だったし、◎◎映画祭で××賞もいただきました、という人は帰ってヨロシイ。
カナリ長く辛抱強く付き合ってきたつもりだが、ただ、映画を作りたいだけじゃないの、という映画が多すぎる。どんな映画が作りたかったのか、が伝わってこないのだ。そんなことはハッキリしている、面白い映画・善い映画・新しい映画が作りたいんだ、というかもしれない。しかしそれでは、まったく言葉が貧しすぎる。
何事であれ、物を作ることは楽しいことだ、わけても何人もの人が集まって何事かを成すことはそれだけで祝祭的な側面を持つ。それが映画であれば、なおさらだ。しかし注意して欲しい。映画は獰猛な生き物だ。胃袋も大きく悪食だ。悪魔的包容力を持つ。何も映画でなくてもよいものも、どんどん呑み込んでいく。アメリカの見巧者コラムニスト=ポーリン・ケイルは『今夜も映画で眠れない』の序文でこんなことを書いている。
映画はわたしにとって、あらゆる芸術形態の中で最も謎めいて偉大なものに思える。これほど包括的で幅広く、多種多様な芸術はない。これほど官能的なふくらみをもった芸術はない。だからこそ、映画はみんなのものなのだ――
(東京書籍1992年11月刊 柴田京子訳)
映画は,沢山の夾雑物を含む。それゆえに面白くもあるやっかいな代物だ。だからこそ厳しくありたいと思う。映画以外に還元できないようなものだけをこそ映画と呼びたい。つげ義春高野文子の漫画が、石田徹也の絵画が、そうであるように。(‥ココは各自 胸に手を当てて それぞれの「お気に入り」を当てはめてお読み下さい)
ヒリヒリするような切実さ・切迫感とそれを昇華した(消化した)表現だけが、「みんな」に届いていくのだ。古くさい保守派の管理人(私の事だ)には、そのためには映画に全重量をかけることが必要条件だ、という呪縛から逃れられない。
映画を作って稼ぎ、結婚して女房子供を養っていくことが難しくなる中で、技術だけが進化した。機材やメディアが簡易・簡便化した。ハードルが下がった分、参加は容易になったが、「みんな」は痩せてしまったのではないか。「みんな」になんか理解されなくてもいいさ、分かる人にだけ分かればいい、という人は、顔を洗って出直して下さい。
「小手先」ではなく、ウデ(腕前、腕っ節、腕力、‥)によりをかけた映画、コシの入った映画を少しでも多く見たい。腕組みして頭にハテナマークがいくつも浮かぶ映画はこの際ご遠慮したい。