2ペンスの希望

映画言論活動中です

御託

幼児から元大学総長まで、映画は誰が見たって構わない。もちろん何を言おうと自由だ。かくして、映画ライター、映画エッセイスト、映画コラムニスト、映画コメンテーター、映画コミュニケーター、などなど有象無象がそれぞれに好き勝手な御託を並べる。批評家や評論家だけでなく、いつの間にか、カタカナ肩書きの書き手が増えた。百家争鳴?いやいやそんなご立派なものとはとても言えない。論争など何処にも見当たらない。配給会社お仕着せのプレスシートをそのままコピペしたような通り一遍の紹介記事を書くか、ささやかな感想・印象批評でお茶を濁すか、大半はそのどちらかだ。いわく「瑞々しい感性」、いわく「余白の多い表現」、いわく「透明な悲しみ」‥。「瑞々しい感性」って、つまりは「売り物は若さだけ、若いという以外とりたてて褒めるところなし」ってことだろうし、「余白の多い表現」って、「何を言いたいのか私にはよく分からんけど、きっと誰か何か感じる人もいるかもしれないので、こうでも言っておくかな」ということではないのか。あげくに「透明な悲しみ」っていったいどんな悲しみのことなの、首を傾げざるを得ない。一見意味ありげで文学的な表現が持てはやされる風潮は、今に始まったことではないが‥。おしゃべり好きや衒学趣味も後を絶たないし‥。

もっとも、このブログだってそのひとつ、独断・独善から免れているという訳ではない。それでも、出来るだけオープンに、出来るだけフラットに、出来るだけシンプルでありたいと心がけていくつもりだ。より的確に、より精妙に、より簡潔に、そうありたいと思う。

薄くて軽い言葉の氾濫を見ていると、欲しいのは肩書きだけじゃないのか、と思えてくる。肩書きさえ持ってれば、書く媒体さえあれば、試写室に自由に出入り出来る。そのためだけに映画◎◎と名乗っているとすら思えてくる。ただの、只見客じゃないか。井筒監督の本ではないが、「こちとら自腹じゃ」ともいいたくなる。

道草して、無駄話ばっかりしてるうちに、日は暮れて、気づいてみたら辺りは真っ暗なんて、恥ずかしい。