2ペンスの希望

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家一軒 車一台

100スクリーン以上で全国一斉同時公開するような大手資本の映画はいざ知らず、中小・独立で作られる映画は、ざっと家一軒程度の予算だと言われてきた。もっとも家一軒といったって、十億を超えるような贅を尽くした豪邸もあれば、プレハブ仕様の建売住宅まで様々、一様ではないのはお分かりいただけるだろう。それが昨今、機材の低廉化と作り方(スタイル)の変容などから、車一台程度で作られるようになってきた。
逆に言えば、家一軒分のコストが掛けられなくなったということでもあるのだが‥、これはまた別に書く。いずれにしろ、決して安くない金額だ。しかし、えっそんな程度で出来るの、と思われる向きもあるかも知れない。それでも制作資金の回収・黒字化がなかなか難しいのが実情、‥‥と、これもまた別の話し、今日は別のことを書く。

さきに、「中小・独立で作られる映画」と書いた。フツーには「自主映画」とか「自主制作」と言う言葉が使われることが多い。どうも昔から、この「自主」という言葉に変な抵抗感を覚えてきた。何かしらしっくり来ないのである。「自主的に作ってます」と胸を張ったり、だから支援してね、とおもねるような響きを感じるのだ。(考えすぎかもしれないが‥)周りの人や観る側にも、応援しなくっちゃ、という気分が生まれる。出来上がりに対する評価・点数が甘くなることもある。それが嫌だった。胸を張りながら甘えているような気がするのだ。
だったらどう言うのか。「自前」とか「自弁」と言えばいいのだ。
「自主映画」だから、お金がないから我慢してね、少々出来損ないでも勘弁してね、作ろうという思い・意欲を評価してね、テーマやメッセージの意義を理解してね、というのは、やっぱりおかしい。
お金がないことを言訳にするなら、作らないか、少なければ少ないなりに作る方策を凝らすべきだろう。そこからウデやワザが磨かれ、知恵や工夫が生まれる。まわりの好意(厚意)や同情(憐れみ)に倚りかかるのは止めにしたい。何度か書いたが、「分かる人に分かってもらえばそれでいい」というのは、甘え・泣き言でしかない。
だって、映画を作ることなんて、余計なこと以上ではないのだから。無くったって、誰も困らない。だからこそ、切実で、高度で、戦略的であって欲しい。つくづくそう思う。
車好きだけをうならせるのではなく、万人から喝采を受けたい―そう思わなければ
嘘だ。