2ペンスの希望

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映画の味方

映画館の上映形式が、時代の変化について行けず、映画の観客が激減しはじめた。しかし、テレビを通じて映画をうけとる人々が激増してきて、テレビで育った若い人々が、映画館へくるようになり、あの暗い沈黙の闇のなかに沈んで、ひとり映画をたのしむ魅力を新しく知りつつある。
しかし、ただわかりやすいからといって、映画を漫然と見てしまってはつまらない。何ごとも、よく知っていなければ、そのおもしろさはわからないものである。夜空の星を見るにしても、野原をあるくにしても、そうである。
私は、映画を見る若い人たちに、映画とはなにか、ということを知ってもらって、映画を見る喜びを倍加してもらいたいと思った。それには映画の本質を知らなければならない。
ところが、映画はおもしろいのに、映画の本質論、芸術論は、あまりおもしろいものではない。(中略) 映画を見る人には、文字を読むのがきらいだから見るのだ、という主張もあって、こういう本質論をなかなか読まない。
映画映像論自体にも、詩論と同じように、仲間だけに通じるひとりよがりの議論もあり、余計、一般の人から離れているところがある。
私は、できるだけ、「通」のもっているあのいやらしさを避けて、一般の芸術論のなかに、私自身の言葉で、私の意見として、映画を述べてみることにした。わかりやすく、というのは、程度を下げた、という意味ではない。私自身にもわかるように書いたのである。
所論は、昔のものが、やはり基本である。作品も、昔のものが多いが、文学作品が、全集や文庫本になって昔のものが繰り返し読まれ、取り上げられているように、映画もまた、新作のみを追うべきではないのである。映画会社も、再上映をうしろめたがることなく、以前の作品を、つぎつぎくる新しい世代に提供する義務があると思う。映画にも、万人が共有しなければならぬ古典があるのである。(中略)
ふと気づくと、むかしいっしょに映画を見ていた仲間は、いまはもう映画を見ていない。詩と同じように、映画にはいつも、キザな、青っぽい青春性がある。
私は詩を書き、文学を好むが、いつまでも、やっぱり映画の味方でありたい。つねに、映画の側が正であり、善であり、美であるという‥‥。

いつ頃の誰の文章だとお思いだろうか。1975年8月に出版された詩人で映画評論家・杉山平一さんの『映画芸術への招待』(講談社現代新書409)のあとがき。無断引用させて戴いた。 いいなぁ、「映画の味方」という言葉。
1975年といえば、家庭用のビデオデッキVHSが26万6千円という定価でビクターから発売される一年前である。レンタルビデオショップも無ければ、シネフィル、メディアリテラシーなんて言葉も知られていなかった。その後の日本の映画の凋落、長期低迷は繰り返さない。繰り返したくもない。
ここからは実感で書くが、映画館に集まるお客さんの平均年齢が毎年どんどん高くなってきている。十代二十代の頃映画館に浸った世代が還暦を迎え、再び映画館に帰ってきている。けれど、ビデオやDVDで育った若い世代は違う。彼らは残念ながら映画館で映画を見る楽しみを知らない。むしろ時間に縛られることを嫌い、見知らぬ他人と共有する煩わしさを避ける。若い世代に映画と映画館の魅力を伝えることが出来るのは、ある年代以上の層に限られる。だとするなら、その役割を果たしたい。それが「映画の味方」の世代的責任だ、といえば言いすぎだろうか。