2ペンスの希望

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「共有」⇔「私有」

視覚芸術の歴史について、森村泰昌という現代美術の作家がこんなことを書いていた。ズット以前に読んだので、うろ覚えなのだが、こんな趣旨のことだったと記憶している。出典不祥のまま勝手に引用する。(ご存知の方は 乞う御教示)
油絵の具を使ってカンバスに描く画家は、「見る人」として「見えるもの」(例えば大きな山)をカンバスという布に描き、いわば山の写しをとることで持ち帰り可能なサイズにしてしまう。その後の写真の登場はフィルム及び印画紙というさらにコンパクトなイメージベースを可能にするとともに、アマチュアの時代の到来を意味する。絵画は写真にいたって初めて「誰でもなにもかも簡単に所有できる」段階に達した。
映画も当初は「映画館の中にのみあって」不特定多数の観客が一致団結して、求心的な緊張感とともに「共有するもの」であったが、テレビの登場、ビデオ・DVDなどの普及で「所有(私有)するもの」となった。その分、一致協力する時代感覚ではなく、個別バラバラ、てんでに愉しむ時代となった。そこでは映画と観客を分かつ境界線は曖昧になり、プロとアマも地続きとなった
、という主張だ。いささか端折り過ぎでひねくれたところもある論だが、読んだ時は妙に納得感があった。
「所有」⇔「共有」⇔「私有」という用語が新鮮だったのかもしれない。
デジタルの時代が進んで、オリジナルとコピー(複製・コピペ)との差はさらに見分けがたくなった、といわれる。
しかし、当ブロガーには、オリジナルだけが持つ匂い、オリジナルだけが帯びる熱がある、という確信がある。肉声、ナマ、体感。自分で足を運び、自分の目で見て、自分で判断すること、それは「私有」的行為ではなく、どこまでも「共有」的行為であることを強弁したい。デジタル世代からみれば信仰や祈りに過ぎないようにみえるのだろうが‥。
映画を「個別・恣意」から救出し、「新しい公共」を作りたいと思う。これにもまた、「保守派」のレッテルを貼られるのだろうが‥。
「保守が革新」たるダイナミックス!分かるかなぁ、分かんねぇだろうなぁ、いえーい、と最後は懐かしレトロギャグで‥‥。(松鶴家ちとせを憶えている人ももはや少数派だろうが)