2ペンスの希望

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苦手

むかしからシネフィルが苦手だった。
知識の量の自慢大会、知られざる「お宝」(秘宝?)の発掘競争‥みんな嫌いだ。どこやらの偏差値の高い大学の総長さんになったエライ先生の書いた本は、いつも途中まで読んで放り出した。多分映画がお好きなのだろうが、映画以上に自分がお好きな様子が透けて見えてくるようで「分かった分かったアンタはエライ」といって逃げ出した。結局何一つ身に付いた言葉は無かった。残念ながら‥。
もういい加減に、映画の中の世界観や「コード」に 妙に深遠なるものを読み込み過ぎるのは止めたほうがいい。客観的にはただの退屈な「記号」か、意味不明なだけの(生煮えのままごろんと投げ出された)(観客にとっては)どうでもいい「記号」に過ぎないものが、何故か深遠なものに見えてしまっているということはないか。それがいいんだよ、私の生理に合うんだよといわれればもはや言うことなし、だが。
それって→俺は映画を知っている、沢山観てきた、といったフアン、映画フリーク向けの「無駄に細密な世界観」「くすぐり」「内輪受け」ではないの。コードを見抜ける「アタマがいい人」「よく分かっている人」になりたがっているだけ。映画へのオマージュと称して、自分たちにだけ分かる「コード」の埋め込みにやっきになる作り手たちも居る。見当違いもはなはだしい。何をかいわんや、である。
最近とみに保守的になってきた。保守的とは、身体的ということだ。身体が喜ばないものは受け入れられなくなっている。それもアタマよりムネの方が大事。
スノッブでもオタクでもなく、愉快に映画を愉しみたい。温泉の成分分析や効用を云々するより、のんびりゆっくりお湯につかって温まりたい、そんな気分だ。出来るならその温泉は、本物であって欲しい。「バスクリン」をはじめありとあらゆる入浴剤が出回って久しいとしても、だ。