2ペンスの希望

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集団的私体験

「映画館」論の新ネタを披露させて貰う。
ウォルター・マーチ(Walter Murch)というアメリカの編集マンがこんなことをいっている。【『映画もまた編集である』(2011年6月みすず書房刊)
「(映画館で映画を観ることは)集団的私体験とでも呼べばいいのか、とても矛盾した状態になることはたしかだね。自分が集団の一員であり、その集団的体験からある種の利益を得ているにもかかわらず、映画の出来が良いと、その作品が自分だけに直接語りかけているように感じられる。そうなると、もはや観客全員が感動しているかどうかなんて関係ない。‥(中略)‥。映画館における心理状態の第一歩というものは、自宅の日常的な環境から出て、映画に描かれている外の世界に引き込まれたいという切なる願いから生まれているのではないかな。だれでもある意味、自分自身の状態に不満をもっている。そこから出て、等身大以上のものに触れたいと思いながらも、そのくせ、選んだ映画が自分に直接語りかけてくれることを望んでいる。これも矛盾だね。映画はマスメディアであり、映画館に行く理由は、それが集団的だからでしょう。ところがその映画が自分だけに親密に語りかけてくれなければいい気持ちにはならない。
別のところでは、こうもいっている。
観客の積極的な関与を導くことに成功した場合、つまり、ある特定の情報しかあたえずに、結論は観客が自分で考えるように仕向けることができた場合には、映画とそれぞれの観客の間にクリエイティブな関係性が生まれるんだ。実質的にはだれが見ても同じ映像とサウンドの連続で成り立っているけれど、理想としては、観る人によってそれぞれ少しずつ違った刺激を受けるものであってほしいね。マスメディアであることに変わりはなくとも、個々のリアクション、その映画が何を語りかけてきたかという感覚について、観客によって違いが生まれてしかるべきなんだ、これは個々の受け手がスクリーンの中に自分バージョンの作品を見ているという、すばらしい状況だよ。‥(中略)‥。どうしてそんなことが起こるのか。きっと、巧みに構成された映画には多義性があるから、観客は自身の体験から得た何かを想起することができ、その精神状態でスクリーンに映し出されたものを見ると、「これは私にしか理解できない。これは私のために作られた映画だ」と感じるのではないかな。
そういえば、昔、糸井重里が、「誰がみてもわかり、かつ、わかってるのは私だけと思わせるのが良いコピーの要諦」なんて言ってたっけ。
「集団的私体験」と「多義性」、キイワードかもしれない。
あと、「非所有」も‥