2ペンスの希望

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These3: 地産地生

新しい日本の映画のために 
These3は、「地産地生」である。

岡山県真庭市でトマト農家を経営しながら映画を作る「陽光プロ」のスローガンを拝借する。消費の消ではなく、「生きる」の生。
「その土地と営みを見つめる“地産地生”映画」と冠して、彼らはこう綴る。
「私たちは日々遠くからやってきたものを消費する。食べ物も、文化も、情報も‥‥。そしてさも世界が繋がっているという錯覚にたいして、私たちは盲目であり、無関心である。ただ、岡山で撮った映画を岡山で公開する。ただ、岡山で育った農作物を岡山で消費する。世界ではなく足もとを感じることが、より豊かになることだと思う。ここに生きるということ、今いちど立ちどまり、ともに考えたい。」岡山県内巡回上映用チラシ】

撮影所なきあと、東京や京都に行かねば映画が撮れない時代は終わった。
「そんなことは無い、今も砧や調布、大泉、太秦には撮影所があるじゃない」という御仁も居るかもしれない。しかし、あんなものは撮影所の「抜け殻」でしかない。
次の世代を育てる役割が果たせなくなった撮影所には、マガイモノと詐欺師と知ったかぶりのゴロツキぐらいしかいない、その程度に思っておいた方が身のためだ。(もちろん誠実で立派な方も居られるに違いないのだが‥)残念だが、時代が撮影所を必要としなくなったのだ。
“地産地生”映画は、「ご当地映画」「町おこし映画」とは全く異なる。間違って貰っては困る。「ご当地映画」「町おこし映画」の殆どは、中央からやってきた自称プロの映画人(正体は不明)が、地方の人とお金を散々食い散らかしたあげく中央に引き上げていくという「噴飯物」だ。中央も中央なら、それを有り難がる地方も地方だ。中央と地方という構図そのものが無効になる時代に突入しつつあることに、いい加減気付くべきだろうに。

遠くの「楽園」、隣の「青い鳥」を求めないで、今居る場所に根を張ること、逃げ出さないで、その場にとどまること、だ。条件は一つだけ。閉じないこと。これである。
自分の居る場所は、まっすぐ世界(と時代)に繋がっていることを忘れないことだ。
もっとも、かつて「東京へ行くな ふるさとを作れ」と詠った詩人が、後年、渋谷に上京し、同業の詩人から揶揄されたりしたこともあったようだが‥‥。
■付記
実は、40年前に『空、見たか』という優れた映画を作った後、颯爽と故郷・倉敷に戻り、映画を生き続けているT監督のことを書きたかったのだが、いかんせん準備不足。稿を改めたい。
これだけはハッキリいえる。凄い人は、中央にいるのではないのだ。
若き映画人の健闘を祈りたい。