2ペンスの希望

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がっこの先生 是非

その昔から 食えない詩人や文学者が大学の先生になって食い扶持を稼ぎながら本業(余技?)に精進するという例は沢山あった。だとするなら、食えない映画監督が大学で教えたっていいじゃないか、何も責められることじゃないという声も聞こえてきそうだ。
「金になる仕事でどうにかしのぎながら、考えているのはいつだって映画」ということなら
それでいいじゃないかという理屈だろう。しかし、考えて作った映画が中途半端な出来そこないではアウト。不合格。そんなことははなから決まってる。
昔の先生=文学者や詩人=大人・教養人・インテリ・語学堪能者だったようだが、
今の先生=映画監督はどうだろうか?大人だろうか、インテリだろうか。
(映画は大人じゃなくったって作れる。インテリでなくても‥‥という輩は問題外の外)
若造(学生)相手に、現場を知らない、映画を知らない、と御託・ゴタクを並べて、「俺はプロ」と映画界の先輩風しか吹かさないショボクレでないことを願う。
「プロならプロらしく、映画を作って食えるような算段をしたらどうだろうか。がっこの先生をやるヒマがあるなら、映画の技・腕を磨いたらどうだろうか」
心の底から、「がっこの先生」になりたいと思っている「映画学科の先生」が一体どれくらい居るのだろうか、真面目に聞いてみたい気がする。
現場体験が大事とばかり、実習・インターン制と称したプロの映画制作現場への無賃金動員も盛んなようだが、これもさもしい。