2ペンスの希望

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21世紀

映画を見始めた頃は、映画館しかなかった。パソコンもDVDもビデオもなかった。映画は映画館に出かけていって見るものだった。それが大きく変わったのはご承知の通りだ。「映画館」と「ホームシアター」の違いについては、ずっと考え続けてきた。(昨今スマホでの映画体験もあるようだが、老体には荷が重過ぎる) これだという決定打はまだ出せないでいる。
断片的なキイワードが幾つか浮かぶだけだ。 闇と家具、洞窟と窓、過去(過ぎ去った時間)と現在(いま流れている時間)、世界と社会、個と私、照り返し(月)と放射(太陽)‥‥etc ‥‥  表記が継起的衒学的に傾いたようだ。夏に読んだ『ル・クレジオ 映画を語る(原題は、「映画散策」というほどのの造語らしい)』(中地義和訳河出書房新社刊)と最近読んだジャン・ルイシェフェール『映画を見に行く普通の男 映画の夜と戦争』(丹生谷貴志訳現代思潮新社刊)のせいだろう。二冊ともそれなりに楽しんで読んだが、このご時世、新刊ではないフランスの映画本の翻訳にいかほどの意味があるのかは正直なところ、よく分からない。
それにしても、今は21世紀。20世紀の映画からは遠く離れた地点まで来てしまったことだけは確かなことだ。(ここからは、自分のことは棚に上げて言うのだが‥。)過去から十全に学びながら、21世紀の今ここに生成しつつある映画について、ラジカルに語るものはいないのだろうか。誰か‥‥。ちょっと前に、「生きてるものはいないのか」というタイトルの映画があったが、そんな気分に陥る。時代とともに生きるとするなら、時代を丸ごと鷲掴みした今の映画論が求められる