2ペンスの希望

映画言論活動中です

内容と形式

内容なのか形式なのか、主題なのか手法なのか、ナカミなのかカッコなのか、
素材なのか料理法なのか、‥‥永遠に片が付かない課題なのかもしれない。
二分法そのものが駄目なのかとも思う。
どちらか一つを選ぶという発想がそもそもの間違いともいえそうだ。
それでも、表現に携わる者にとって、これらは悩ましい問いであり続ける。
そのことに変わりはない。
採り上げる主題、素材はそれなりにご立派なのに、出来上がってみたら、貧相・お粗末という映画が多すぎる。「残念」というか「もったいない」というか。
最近の偽らざる実感だ。
皆、「知識」や「情報」を求めすぎる。そのことに応えようとする作り手たちは、知識や情報を詰め込みにかかる。一方、「感動」を求める観客には分りやすく表層だけの「感動」が準備される。奥深い味わいは敬遠され、一口で甘みが分る「性急」「安易」が選ばれる。観客が悪いのか、作り手の責任なのか、鶏が先か、卵が先か‥ここでも堂々巡りは繰り返される。
ここいら辺りで主題重視主義も観客偏重主義も止めにしないか。
映画を通じて得られる知識や情報は、他の方法でも「代替可能」なのではないか。映画から手っ取り早く知識や情報を手に入れたい「観客」なんてのは、単なる怠け者ではないのか。映画には知識や情報よりも大切なものがある。主題や筋立てよりも、映画ならではのワクワクドキドキを提供することに、作り手はもっと「注力」「腐心」すべきだ。
観客には一切の責任は無い、すべての責任は作り手側にある。潔くそう認めるべしだ。
題材や設定、ストーリーが大切だということに異論は無い。しかし、意味を求めすぎるばかりが能じゃない。無意味を楽しむ遊び心。映画ならではの魅惑を伝えることは、作り手の責務だろう。
お客は、出された料理を食するだけだ。美味ければまた来るだろう。不味ければ黙って足が遠のくだけだ。栄養を取りたいだけのお客は、健康食品やサプリメントを飲めば済む。味を求め、食べることの喜び・欲望を満たす為に足を運ぶお客さんを育てなければお店に未来は無い。新鮮で栄養豊富な素材を、如何に料理するのか。料理法を知り、腕を磨くしかない。
映画の力は、何を取り上げているのかではなく、どう描いているのかにある。映画は「蒙を啓く」ものではなく、「欲を満たす」もの、そう思っている。
薄い欲望で満足させるのではなく、深く貪婪な欲望に気付かせ開発していくのも作り手の仕事だ。