2ペンスの希望

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文法と文体

主題より手法が大事。そう書いた。そこで今日は、映画の文法と文体の話。
といっても、映画屋の端っこにぶら下がっているだけの身では、荷が勝ちすぎる。手に余る。ということで、有名な小津安二郎の文法論を紹介する。

●小津の発言
文学の場合の“文法”というのは、いわば人間の生理に繋がった問題だと思う。動詞の活用形を間違ったりすると、読み難いし、テンスも分からない。そういう生理的なものは尊重しなくてはならない。しかし、映画でいう“文法”というのは、何か演出上の特殊な技術の問題で、観客の生理に直接繋がっていない。 批評家が、これは“文法”に嵌った良い演出だと褒めたところで、観客の方は正直で、“文法”通りの窮屈な画面にはたちまち退屈してしまう。観客を引き摺って行くものは、観客の生理と結び付いた映画感覚であって、技術の上の文法などというものではない。私は映画的感覚の基本は、自分が先ずこう思い、この思いが観客生理に、いかに訴え掛けるかどうかにあると思う。ここから、全てが出発するのだ。
(中略)
感覚の枯渇を“文法”で誤魔化されたのでは、金を払って見られる観客に申し訳ない事だし、映画芸術の将来を思うと、これでは寒心に堪えない。
(中略)
そういう意味からも、私は、映画に文法はないという事を強調したいのである。

【『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』小津安二郎著/2010年5月日本図書センター刊より】
俺が作るという強い意識がないと、良い作品は出来ない。科学技術が進んだお蔭で、ぼんやりしていても映画は何となく出来てしまう。
【『小津安二郎茅ヶ崎館』石坂昌三著/1995年6月新潮社刊より】

●小津研究者の発言
小津調の特徴である人物を向き合う人物を正面からとらえる「切り返しショット」は通常の映画の「文法」に沿っていない。通常、映画の「文法」にそった映像では切り返しのショットでカメラが二人の人物を結ぶイマジナリーライン(註)を超えることはない。しかし、小津は意図的にこの「文法」を無視した。
(註)イマジナリーライン=想定線(そうていせん)とは、映画やビデオを撮影する場合の
用語で、2人の対話者の間を結ぶ仮想の線、あるいは人物、車両等の進行方向に延ばした仮想の線をいう。

ロング・ショットで、ABの位置関係だけ、はっきりさせておけば、あとはどういう角度から撮ってもかまわない。客席の上での視線の交差など、そんなに重要なことではないようだ。どうも、そういう“文法”論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきものではないだろうか。
【『芸術新潮』昭和34年4月号(田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21 (1946) 年 - 昭和38 (1963) 年』1993年フィルムアート社所収)】
小津は「映画の文法」というものに対して批判的で、「機械の機能が画面に現れただけのフェイド・イン、フェイド・アウト、オーバーラップをまるで文法のごとく考えるのはじつに無定見な話だ。文法でもなんでもない、機械の属性だ」と言い切っている。
【松竹編、『小津安二郎新発見』、1993年講談社刊】

以上。
文法に縛られることはないという主張だ。
確かに、文法を知らなくとも発話や書記は可能だ。
文法は後付け、学者や研究者の仕事かもしれない。
とはいうものの、若者諸君、早とちりしてもらっちゃあ困る。
文法を無視して、出鱈目や無茶苦茶でいいよということではない。
「観客生理」を大切にせよ、という前提を忘れてはいけない。
観客は置いてけぼりという独り善がりではいただけない。
小津の言葉は、既成の文法を鵜呑みにするな。そんなものに倚りかからず自分の表現=「映画感覚」を磨けということだろう。小津のいう「映画感覚」とは作家の「文体」に他ならない。
自分の文法、法則、経験則、ルール、メソッド、方程式、つまりは、自分の「文体」。
文体(スタイル)には、作り手の姿勢やこだわりすべてが込められている。